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「…陛下……陛下、」


苦しいですってば、と呆れたように、むしろピオニーのを方をなだめるような口調で、何度繰り返しただろう。しかし一向に彼はその腕を緩めようとはせず、なぜ素直にならないんだ、とか、なんだっていつもおまえはそうなんだ、などと時折呟いて腕に力を込め直すのみで、ジェイドは本格的に途方に暮れそうになった。
シャワーを浴びていない男の体は微かに汗の香りならぬブウサギの香りを漂わせているし、ワイングラスは温くなり掌に馴染みつつある。そうしてどんどん人肌に近くなり、指先に溶けてしまうんじゃないかと言う具合だ。
いや、溶ける前に腕がつって床を覆う上等の絨毯を汚してしまうだろう。
軍医から「細すぎる」とのお墨付きを受けている腕は、男に腰を抱かれた不自然なポーズにそろそろ耐えきれなくなってきている。
目線に掲げたグラスをピオニーのつむじの辺りに下ろしたらちょうどいいかもしれないが、仮にも相手は皇帝である。35歳になった自分は、こんなときばかり形式だけの常識人ぶりを捨てられない。

まるで降参の姿勢だ。

いよいよ肩までしびれてくるが、体を揺すっても背中を叩いてもびくともしない。とうとう、グラスはジェイドの手から滑り落ちた。毛足の長い絨毯は衝撃音もグラスの中身もあっけなく吸い込んで、ああこんなものかと思う。
恐れてこらえていたものが一瞬だ。腕が軽くなり、床からワインの芳香が立ち上ってピオニーのブウサギの臭いが遠くなって、気の抜けたからだに彼の腕が食い込む感覚が鮮明になる。
ぐいと押されて体は簡単に傾いだ。腕だけでなく背筋まで鈍くなっていたらしい。有り得ない失態だ。25年分の隙をさらしていると思う。深く息をついて目を閉じる。
酔いは醒めかけているようにも、ますます手足の自由を奪っていくようにも思えた。なんでこんなことになったのだろう。
自分はネビリムの死を悲しんでいるのだろうか?いやそうではないはずだ。いたって冷静に、ネビリムレプリカを通して過去の自分の行為の愚かしさを噛み締めただけ。しかし一方で、自分は己の全てを自らで意識できる程成熟した人間ではない事を知っているとも思う。

陛下の目に映る自分は、悲しいのに、苦しいのに、それを我慢しているらしい。

ピオニーの掌が、自分の前髪をすいて流していくのがわかった。額にそっと触れる体温がいかにも傷付いた子どもを慰める様子で、何度も耳のうしろへと滑っていく。
慰められている自分はもしかしたらほんの少しは悲しいのかもしれない。無意識に押し殺した感情の切端を、ピオニーは自分のなにがしかの仕草から拾ったのだろうか。判らない、それが正直な感想だった。自分の感情が分からない。

悲しいのだろうか。何も感じていない振りをして苦しんでいるのだろうか。それこそが錯覚で本当はこの心臓にあるのは虚無なのだろうか。



このままでは、わからなくなりそうだ。

ピオニーの、広い、熱い掌が髪をくぐり生え際から頚椎までをゆっくりと撫でていく、それが、心地良いのかどうかも。

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