本棚5

□グレートヒェンへ叫ぶ
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亡霊がやってくる。
とっくの昔に死んでいるはずの男だ。
殺されたはずのあの男が、必ず金曜日にやってくる。

「安室くん、たった一週間で冷蔵庫が悲惨なことになっているぞ」

そして亡霊は、金曜日に買い物袋と一緒にやってきて冷蔵庫を開くと必ず何かしらの小言を言ってくる。
眉間に深い皺を作ってしまうのは亡霊の図々しさへの苛立ちと、男へ大して持て余している憎悪のせいだ。
さらに加えて言うならば、29歳にもなって母親に小言を言われたような感覚が無性に腹が立つからだった。
1LDKのマンションの一室、安室透名義の方。
降谷名義の住居もあるが、そっちは公安で勤務する際に必要なスーツや安室透の部屋にあってはならない物が置いてある。
何の因果か米花町には組織の人間が出入りする。
呼び出される場合も行動がしやすいし、何よりアルバイトをしているポアロや毛利先生の事務所へ行くにも近い。
加えてあまり住居を点々としては怪しまれる可能性が十分にあったので、ここしばらくは米花町の安室透の方に住んでいる。
一人暮らしで収集癖につながるような趣味もないので1LDKでも狭くは感じないし、突き詰めれば1Kでも十分だった。
だがそれはあくまで一人暮らしの話だ。
一つしかない寝床を圧迫する元凶でもあり、現在冷蔵庫の前にいる亡霊の背後に立つ。
どちらが透明な幽霊かわからないなと、胸の内で笑う。
皮肉だ。

「悲惨と言うがな、赤井。食材は腐らせてないしカビが生えたものを放置していない。むしろ綺麗なぐらいだと思うんだが?」

腕を汲んで不遜にあえて見えるように言い放ってやる。
言いがかりもいい所だ。
一体何度目かはわからない赤井の訪問だが、毎回小姑のような指摘をされれば嫌でも気を使って整理をしたくなる。
手土産代わりに夕食を作ってくれるのは食費も浮くのでいいが、その代わりのようにやれ冷凍庫に賞味期限の切れた冷凍食品があるとか、酒ばかりで使えるものがないとか、封が開いて1週間たった食品は捨てろとか。
実の母にだってここまで言われたことはない。
そもそも、いつのまにそんな家庭的な男になったんだ。
ライというコードネームの時のお前は、俺と同じような生活をしていたのは察しているんだぞと言ってやりたい。
アルコールはほどよくどころではなく浴びるほど、それでいてザルで少しも酔った顔をしない。
加えて赤井はヘビースモーカーだ。
組織にいた時から見かけるたびに口元には煙草があった。
しかもヘビーを通り越してチェーンスモーカー。
短くなった煙草を灰皿へ落とすかと思ったら、煙草の火を新しく取り出したやつへ移して吸い続けているのを見たときはさすがに引いた。
俺自身も煙草はそれなりに吸う方だが、運動能力が落ちるのは明白なので一か月で一箱空になるかならないかだ。
色白というより、不健康な土気色にも見える肌で毎日三食健康的な食事をしていますとは言えないだろう。
さすがに嘘だろ、馬鹿でもわかる。
お前が言うのかと言ってやりたい当人である赤井は、無表情に近い顔で振り向くと、視線を冷蔵庫の中へ戻した。

「いやしかし、さすがに空っぽというのは悲惨と言う他ないだろう。食材が買えないほど切迫しているわけでもないだろうに」

ムカッ、とするよりもカチン、とくる。
柔らかく感じる擬音を抜いて率直に言えば反射的に殴ってやりたくなる。
自分はどうにも赤井相手には沸点が限りなく低い。
すぐに激昂してしまうから子供をあやす様な対応をされると理解しているのに心が大人しくならずに感情だけが先走る。
しかし、毎週言われていることだと言い聞かせれば少しはムカつきも納まるというもの。
はたと気づいたことが口から突いて出てきたのは詰めが甘かった。

「お前が住んでるわけじゃないんだから文句を言われる筋合いはない。押しかけ女房がしたいんだったら他を当たれ」

女房、という単語に夜がちらついた。
努めて意識しないように振る舞うが、あちらもなんとなく察しているだろうと思うとなおのこと腹立たしい。
俺と赤井は好きあってるわけではないし、むしろ積極的に殺し合いをするような仲なのだが、セックスをしている。
セックスフレンドというには殺伐としていて、結局こいつとの関係をなんと言い表せばいいのかわからない。
そもそも始まりは公安の潜入捜査官であると露見してしまった後、その時も丁度1週間後に赤井が俺の部屋へとやってきたことからだ。
その時は口よりも早く手が出たが、押し込められて挙句の果てには騒ぎにならないようにと部屋に入り込まれてしまった。
押し売りと一緒な強引さに警戒したが、いつものニット帽に黒のライダースジャケットで最寄のスーパーの買い物袋を持っているミスマッチさにほんの一瞬だけ思考が止まった。
その一瞬は見逃されず、自然な動きで部屋に入り込んだ赤井は許可を求めることもなくキッチンを借りるぞと言って動き始めてしまった。
てっきりお礼参りでもされるものだと思っていた俺は、なぜか食材を取り出して料理を始める赤井に何も言えず、させるがままにしてしまった。
今思えばかなり動揺していた。
赤井と料理が結びつかず、あり得ない光景に眼を奪われたのだと思っている。
そうでなければ失態の中でも最低の部類だ。
夕食をテーブルへ並べられて、椅子に座ったのを見届けてようやく異常さに言及したが、先日のお詫びをと思ってね君は少し痩せぎすだと思うから、というまったく返事になってない返答に頭に血が上って負けず嫌いが顔を出した。
赤井の正面に座って、毒を盛られてはたまらない全部一口ずつお前が口をつけろと言って睨みつけると、それもそうだな、とまた無表情に返事をして目の前で口を付けて見せた。
そうやって立証されてしまえば、俺が口を付けないのもなんだかばつが悪い。
毒も食らわば皿までとええいままよと口にしたら、思ったよりもちゃんとした味付けで、その日は運が悪い事に夕食がまだだったのでそのまま食べ進めてしまったのが恐らく一生の不覚だった。
ついでとばかりにこの場で情報を根こそぎ絞り取ってやると意気込んで、酒を勧めたのも悪かった。
厭味ったらしくライ・ウィスキーを差し出してみたりして、最初は多少の緊迫感があったと思う。
その会話の中で、最近はバーボン一筋でね、などと言われれば余計に頭に来るというものだろう。
俺のコードネームがバーボンだとわかって言ってるから、この男はやっぱり性格が最高に最悪だ。
それからどうしてだったのか、ベッドで朝を迎えることになっている。
笑えないにもほどがある。
酔いの回っていてさらには頭にもきていた俺が、組織にいた頃髪が長かったのは誰かの女にでもなっていたのですか、なんて下卑た質問をして動揺させようとしたことがきっかけだったような気もするし、他にもあった気もする。
黒いシャツのボタンを珍しく、三つも開けていた赤井のせいだったような気もする。
試してみるかい、と酒で濡れた唇で笑う赤井のせい、だったような記憶もある。
頭のおかしな選択をしたくせに記憶はしっかりと残っていて、翌日の深い後悔をよく覚えている。
三十路手前にもなって潜入捜査官という常に緊迫している職業のくせにこの時ばかりは頭がおかしいとしか思えなかった。
いや、この時だけじゃない。
赤井といる時の俺はいつもおかしい。
それからほとんど毎週やってくる赤井に、文句を言いつつも中に入れるようになってしまったのは作る料理がまずくないこととセックスのせいだと言い訳をしておく。
それ以外に理由なんてあるわけがない。
あわよくば口を滑らせたりすればいいと、こちらが探すことなく出向いて情報を落としてくれればいいと、ただそれだけだ。
こちらは赤井がどこへいるのか全くわからないのだから、来てくれるなら手間が省ける。
赤井の方はというと言うに事かいて、最近料理にハマっていてね振る舞う相手を探していたんだ、と言いやがる。
その全てが嘘だ。
赤井が来る時、まるでうっかりという態度で僅かにこちらへ情報を渡してくる。
それで恩を売ったつもりなのならば、そんな事を口にしようものなら迷わず殺そうと思っている。
公安への情報リーク、同時にその情報を元に動く俺達公安を利用する算段なのだろう。
頭にくる。
俺が赤井の一番嫌いな所は、なんでも自分の思い通りになると思っているところだ。
押しかけ女房という単語の意味を図る様にじっとこちらを見てくる赤井が、薄く口を開いた。

「今のところ安室君の女にしかならないつもりだから、安心してくれ」
「な……」

しれっと返してきた言葉に絶句、の後に湧き上がるのは激情。
ほとんど殴りかかる寸前まで脳髄が沸騰する感覚。
実際に手が出なかったのは、単に俺が警察官であると自覚が強くあったからだ。
感謝して欲しいぐらいだが言った所で本気にしてないありがとうが返ってくるのは明白なので唇を噛んで耐える。
赤井を相手にしている時、躾の出来ていない馬鹿犬を相手にしていると思えば溜飲も下がった。
飼い主の意図を汲む事も出来ない浅ましい駄犬。
違う、こいつはネコだ。

「本当に、僕は貴方が嫌いだ」
「そうかい? 俺は、案外悪くないと思っているがね」

性悪の猫は冷蔵庫を閉めるとニット帽を脱いで、さらにはジャケットも脱いだ。
眉間に皺が寄るのを感じる。
何を思っての行動かわからないが、ひどく苛ついた。
俺を痩せていると揶揄するが、赤井だって飛びぬけて体格が良いわけじゃない。
互いに筋肉はついているし体脂肪率は限りなく低い。
筋肉質で世間一般で見れば良い体格をしている方だろう。
だが赤井には不健康さがにじみ出ている。
お前が肺ガンか胃ガンで死ぬのか、俺がお前を殺すのが早いのか笑えないジョークが浮かんだ。
黒を好む赤井はジャケットの中も黒の薄手のVネックで、身体のラインに沿っているためか筋肉の影がわかってしまった。
ほどよく割れた腹が痙攣して怯えたように波打つ様を俺は知っている。
でも、お前が嘘付きなのも俺はよく知っていた。
俺の女だと言いながら、お前が宮野明美に囚われたままなのはわかってるんだぞ。
苛立ちは結局、俺に手を出させて直情的な行動になる。
赤井の思い通りになっているみたいで腹立たしいけど、嘘しか言わないのならばもうまともな口を聞けなくしてやりたかった。
抱いて、舐めて、割り開いて、声が出なくなるほど情欲を暴いて、そうして俺の激情を思い知らせてやりたい。
腕を掴んでそのままフローリングを横切り、寝室へ向かう。
赤井は抵抗することも、質問もしてこなかった。
またそれが赤井の予定通りに事が動いているみたいでイライラした。
ベッドの上は今朝起きた時のまま羽毛布団が乱雑に捲れていたが、構う事は無いそのまま赤井を放り投げる。
大して痛くもなさそうな顔で受け身をとって横になる赤井を見下ろす。
足はベッドから落ちて、勢いでVネックが捲れて腹が覗いている。
電気をつけるタイミングを逃したせいで寝室は暗い。
リビングから差し込む僅かな明かりでも陰影がわかって、赤井を呼吸をするのに連動して動くのもわかった。
起き上がることもしないで俺を見上げる赤井は、ゆっくりと首をかしげて見せた。

「しないのかい? ……安室くん」

正直、あざといと思う。
俺よりも年上の美丈夫と言われるタイプの男が言って似合う台詞ではないが、赤井が言うと平時の無感動な顔とのギャップで妖艶に見える。
女教師とか女医とか、そういうAVを思い出した。
しかも残念なことに俺は年上で立場が上の女性を鳴かせるセックスが好きだった。
女ではないが赤井にはその雰囲気があって、腹が空いたように内臓がざわめく。
欲情を煽られている。
その事実がまた俺の苛立ちも煽る。
男を誘う仕草が手慣れているのがずっと気になっていたが、問い詰めた所で嘘しか言わないから聞かない。
こいつも、どうして俺が自分を抱くのか聞いてこない。
お互い聞けば返事をするけど事実とは異なるから問いかけないし語らない。

「抱いて安室君、だろ」

ベッドに膝をついて両手を顔の横へついて、鼻で笑いながら吐き捨てる。
軋む音はスプリングが上げる悲鳴なのか判断がつかない。
苛立ちのままに覆いかぶさり首に歯を立てると、小さく笑うような気配を感じた。
本当に腹立たしい。
俺の所へやってきて、俺の女だと明言して、俺を受け入れる。
どうせ、俺の物にならないくせに。









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おお、私など生まれてこなければよかった!
ファウスト第一章
恋人を救えなかった男の慟哭

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