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□30km約1時間
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猫を飼っている。
って言っても、ちゃんと首輪を付けたわけじゃなくて、手続きみたいなのもしてない。
野良猫に名前を付けただけだ。
もしかしたらその猫は、俺が呼んでいる以外の名前で呼ばれているかもしれないけど、俺にとってはたった一つの名前で呼ぶ猫。
黒いつやつやした毛並みで、しっぽが細くて長い、赤茶色っぽい色の目をした猫。
恐らくは商店街に住み着いている猫なのだろう。
時折、小学生の相手をしているのを見かける。
今日も学校が終わってバイトもないので家に帰る途中、小学生に背を撫でられているその猫を見かけた。
近所にいる黒の野良猫は今のところそいつだけっぽいから間違いないだろう。
そして、夕方に会えないと決まって夜。
二階のベランダにその猫はやってきた。
ガタンッ、ガタン、窓を柔らかい物が叩く音。
時刻は十一時に差し掛かりそうで、俺は待ちくたびれてうたた寝を始めていたころだった。
あくび交じりに窓を開けるが姿はない。
いつものことだ。
窓を叩いて来訪を知らせるくせに、まるで今来たところだって顔をして屋根を伝ってこちらへ向かってくる。
最初の時はわからなくて、音がしたと思ったのに何も居ないので不思議がった。
きっとそれを見ているのが楽しいんだろうけど、今ではわかってしまってるのにいいんだろうか。
猫の考えることはよくわからない。
窓越しに手を伸ばすと頭を擦りつけてくる。

「こんばんは、涼介さん」

俺は夜にやってくる猫を涼介さんと呼んでいる。
最初はあまりの羞恥にやっぱり別の呼び名を考えようと思い直したのだけど、野良なのに妙に良い毛並みとか、思わせぶりに窓を叩くところとか、そういう所がどことなく似ていた。
それに、音が気に入ったのか涼介さん、と呼ぶとにゃあと鳴く。
まるで返事をしているように思えたし他の呼び名は結局思い浮かばなかったので、そのまま涼介さんと呼んでいる。
そう決めた後になってから親父に黒猫に名前付けるなら何にする、となんとなしに聞いたら少し迷ってゴマ豆腐と返ってきた。
別に豆腐つながりにしなくてもいいだろうに。
身を腕に寄せるようにして近寄ってきた猫は、長い尻尾を器用に腕へと絡めて横になる。
こそばゆい尻尾をそのままにして背中を撫でると、目を細めるのがわかった。

「涼介さん、中入ります? 」

返事はないだろうし、きっと入ってこないとわかっているが問いかけた。
案の定、小さく鳴いて返事をすることもなく撫でられるがままにその猫は横になり続けた。
窓を叩いて来訪を知らせるくせに、その猫は一度も部屋の中に入ってこようとしなかった。
寒いからと中へ入れようとしたら前足をトタンに引っかけて抵抗されたので無理強いは止めた。
その時に猫って思ったより伸びるんだなと見当違いな事を考えたのも覚えている。
いつか入ってきてくれたらいいなと思うけど、飼えもしないのに無責任なことを考えるのはダメだろうか。

「ほんと、なんだか……涼介さんそっくりだよなぁ……」

親しげに接してくれるのに、こちらの方まで踏み込んでこようとしない。
ふらりと立ち寄ってくるのに、気を許してお腹を見せるようにキスをする。
結婚もできないのに一生ずっといられたらと考えるのは、無責任だろうか。
ビョウビョウ、突風めいた空っ風に髪を乱されて目を閉じた。
その一瞬だけでも涼介さんの顔が浮かぶ。
バトルをして、話がしてみたいとは確かに言われた。
それから涼介さんの行動は速くて、日を開けずに秋名までやってきて、また競うわけでもなくお前がどう思うか見たいと言われて助手席に乗せられて。
結果的に峠だけじゃない遠出にも付き合わされた。
付き合わされた、って言っても嫌じゃない。
どうにも緊張してしまうけど、涼介さんは自然と俺に話題を振ってくれたりして自然と話をすることはできたし、何より隣で涼介さんの運転を体感できるのは自分にとっても勉強になった。
親父が言うには言葉で言ってもどうせわからねぇ、という俺の性格をわかっているのか涼介さんはあまり沢山のことを説明せずに実際にやって見せてくれた。
そうして、そうして。

「あー……」

意味のない声を出して記憶を追いやる。
自然と顔が熱くなるのを手で抑え込んでもどうにもならない。
不思議な動きをする俺を見上げて、くるりと首を傾げて見せる猫の方の涼介さんを恨みがましく見下ろしてしまう。
勢い余って告白、のようなものをしてしまった。
あの時のことは何度思い出しても情けなくって恥ずかしくて穴に入ったら出たくない。
それでも今、俺が恥ずかしさのあまり湖に身を投げたりしていないのは涼介さんが俺もだと言ってくれたからだ。
恥ずかしい記憶とセットだけど、あの時の涼介さんだけは何度でも思い出しくたくなるぐらい綺麗だった。
男の人に綺麗っていうにも変かもしれないけど、涼介さんはカッコいいだけじゃなくてすごく綺麗な人だ。
にあぅ、呼びかけられるような声に自分の手が止まっているのがわかった。
催促するような視線に悪かったよ、と言って機嫌を取る為両手で揉みこむように撫でまわす。
細身だけど大人の猫なのだろう。
比較的大きめな体を丸めるようにして寝返りをうち、お腹を出してくる。
撫でて欲しいのだろうなと思ってお腹から顎の下まで撫でてやるとぐるぐると鳴かれた。
こうやって思わせぶりに懐いた仕草をしてくるところとかも、そっくりだ。

「お前はいいよな……すぐに会える距離だし」

高崎だって秋名からなら遠くないし、赤城に行けばもしかしたら会えるかもしれない。
けど、恋人関係になったことがない自分には判断がつかなかった。
会いたいからと思って、会いに行ってもいいのだろうか。
もどかしい。
電話をしてしまおうかと思ったけど、啓介さんが電話口に出た場合の事を考えると渋面が隠せない。
涼介さんを出してほしいなんて言えば、理由を根掘り葉掘り聞かれるのは目に見えている。
まだ、啓介さんには言えてない。
いつかは言わなくちゃいけないんだろうなと思うけど、どうやって伝えたらいいのか見当もつかない。
だって、男同士でなんてどういったらいいんだろ。
殴られる覚悟ぐらいは、した方がいいよな。
喧嘩慣れしてそうな啓介さんのことだからきっと殴られれば痛い。
けど、傷が残らないような上手な殴り方をすると思う。
感情に任せて殴りかかるような俺とは違う。
ざわざわ、音がしているような気がしたけど実際、それは胸の中でしていたみたいだ。
ぐるぐると心臓を苦しくさせる感情が嫉妬なのはよく知っている。

「ずるいよ。啓介さんは……」

いつだって会えるんだ。
家族なのだから同じ家に住んでいるのも、過ごす時間が違うのも仕方ないことだとわかっている。
それでも、生まれてからずっと涼介さんのいる家で過ごしているということが羨ましい。
俺はこれからの一生をずっと、それこそ死ぬまで涼介さんと居られたらと思っている。
口にするのはまだ気恥ずかしくて、心の準備もできてないから言わないが本当にそうやって過ごせたら幸せなのになと思う。
プロジェクトDが終わるまでじゃなくて、終わってからも、できれば隣で涼介さんの向かう場所に行けたら。
なあぁご。

「いって! なんだよー……」

鳴き声と同時に指先を甘噛みされた。
噛みつかれるような感じではなかったし、血は出てないけど噛まれればそれなりに痛い。
撫でる手がぼうっとしていて構われてないのを理解したのだろうか。
催促するにしても乱暴だろう。
そういう、甘えたいのにやり方がわからなくて爪を立てるところも、そっくり。
益々会いたくなって、ため息が漏れるばかり。
明日だって配達があるのだから寝てしまおうか。
ぐるぐる、喉を鳴らす猫から手を放すと部屋から漏れる蛍光灯の光を反射させた目がこちらの様子を伺うようにじっと見つめてきた。
今日ならもしかしたら、って思いが浮かぶ。

「おいで」

指先をちょいちょいと動かして呼びかける。
見開かれた瞳孔は俺を品定めしているようにも見えたし、自分に向かって言われたのだと理解してないようにも思えた。
名前を呼ばないといけないかもしれない。
なんて呼び方にしてしまったんだろ。
本人にすら言ったことない、言えそうにない呼び方をしなくちゃいけないなんて冗談だろ。
別に呼ばなくたっていいし、俺のペットじゃないんだから意固地にならなくたっていいんだ。
でも、本人には言えないような事でも、理由をつけて口に出せるのならば。
緊張して少し、喉が渇いた。

「……おいで、涼介さん」

猫はぴくんと耳を動かして立ち上がる。
こちらへ来るかなと思ったが、くるりと背を向けられてしまった。
手を振る様に尻尾をゆらして猫はそのまま屋根を伝って行ってしまう。
残念なような、少しほっとしたような。
本人すら入れたことない部屋に、猫とはいえ同じ名前の生き物を入れるのはなんとなく罪悪感があった。
猫相手に何を考えているのかって感じだけど。
おいで、なんて。
思い出すと少しずつ顔が熱くなってくる。
誰にも聞かれてないのが救いだ。
会いに行っても許されるだろうか。
そればかりを考えた。
俺が涼介さんの時間に割り込んでも、嫌われないだろうか。
そう思うと躊躇われた。
まだあと一歩踏み出せない俺はやっぱり経験のない年下のまま。
何年か経てばきっと、と思っているうちはガキのままだ。
好きだから会いに来ましたと言って涼介さんちに行けるのは先の話。

「はあぁ……おれって、なさけねー」

なあぉ、返事をするように屋根の端っこで黒猫は鳴くと、するりと降りて行っていった。
明日は夜、赤城に行ってみよう。
それでもしあの白いFCがいれば声をかけてみよう。
偶然ですね、って。
きっと偶然じゃないのは涼介さんにはバレバレなんだろうけど。






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