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□食欲は二の次
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病理医一人、技師一人。
ブラックな職場と言うと軽い感じがするけど、労働基準法違反を現在進行形で行っている職場だからな。
いじめって言うと恐喝罪や暴行罪が軽く感じるという理論が、七連勤目の夜中には理解できるようになる。
ブラック企業なんて軽い響きじゃだめだ。
劣悪な環境の職場には犯罪集団と呼んで叩くべきだ。
そうでもしなきゃ、俺が定時に帰れるなんて夢のまた夢でしかないくて、リョコウバトを見つけるのといい勝負だろう。
知ってるか、リョコウバトって絶滅してるんだ。

「森井くーん。コーヒーちょうだーい」

間延びした声がする。
背後からよく知った声がするけど聞こえなかったことにする。
なにせ劣悪な環境を作っている一番の原因が真後ろだし。
それに俺は技師なので給仕係じゃないし。
この七連勤目の夜中に病理の部屋にこもりっきりなのも全ての原因は真後ろにいる人だし。
あらゆる理由を付けて無視を決め込むが、振り向きもしないその人は当然ながら無視されていると気づかない。

「おーい、森井くーーん」
「……」

こっちは指示された検査用の下準備が死ぬほどあって、今目の前にある検体がラストで、これが終われば寝られるし休みなんだって思って集中したいんですよわかってんですか。
と、怒鳴ってやりたいことが次々喉から飛び出してきそうだけど、息を止めて飲み込む。
ここで構ってはいけない。
この数年でよくよく理解している。
岸先生は見た目こそ不機嫌の塊で無口そうだけど、実際はかなりおしゃべりだ。
世間話のような無駄な話も付き合うし、たまに独り言なのかわからない話を延々喋ってる時もある。
それに付き合う時もあるけど、細かい作業をしている時は正直勘弁してほしい。
ピンセットで取り扱うような作業の時はなおの事。
染色が済んだものを設置、組織を潰さないようにしてあと二つで終わる。
全てを木枠の箱に置いて、必要な数値を洗い出して書き記して印刷かければこれでやっと七連勤が終わる。
重ねて山になった書類とプレパラートを重量に任せて机の上に置くと、どんっと重々しい音がした。
これで終わり、もう何もしたくないし眠いんだからさっさと帰りたい。
あらゆる感情が乱雑に浮かび上がっては消えていくのは、眠いからだ。
三大欲求に体は忠実。

「おお…びっくりした。えぇー、こんなにまだあるの?」
「これで終わりです。コーヒーは淹れませんからご自分でどうぞ、僕は先に帰らせてもらいますからね」
「終電ないよ」
「いつもそうだから最近チャリ通勤だって知ってて言ってます?」

誰かさんのせいで、とついでに付け加えれば目の下の隈が濃い顔がげんなりする。
いい気味だと思うのと同時に、この人も無理してるんだなと思う。
だがこの連勤と徹夜の理由を作ったのは岸先生なので、心配は一瞬で夜空の星に消えていく。
流星と同じぐらいの速さで消えていく心配なので、頭痛を訴えてきそうな頭を抱えて帰り支度をする。
一刻も早く自宅のベッドに行きたいけど、途中で事故を起こして職場に救急搬送の逆戻りだけはしたくない。
ならば少し寝てから帰った方がいい。
パソコンの電源を落として振り返ると、顕微鏡を覗いたままの岸先生が手をひらひらさせていた。
何も言わないけど、ちょっと来てって仕草なのはわかる。
わかるけど、もう仕事に関わる話はしたくない。
したくない、のだけど。

「なんですか……」
「もうちょい近く」
「はあ……?」

呼ばれるままに近づけば、まだひらひらさせて呼んでいる。
何をしたいのかわからないが、二人しか居ない病理室で声を潜める必要もないのに耳打ちでもしたいのか。
腰を折って顔を寄せて、なんですかともう一度問いかける。
くるりと顔がこちらへ向けられて、自然に口を塞がれた。
驚きで声を出すよりも、息が止まった。
反射的に逃げ腰になったが、首を捕まれてしまえばそれも難しくてされるがまま。

「ん、っ…は、あっきしせん、せい……っ?」
「……ん……はぁ…」

呼吸を再開しようとして口を開けてしまったら、その隙間に舌をねじ込まれて強引に絡められる。
久しぶりに触れる粘膜に、腹に熱が溜まる。
七連勤の間は帰って寝るだけの生活をしていたので、自慰は当然してる余裕はないしセックスなどもってのほか。
恋人である岸先生とは、毎日会ってるけどスキンシップを互いに好むわけでもないし何より、忙しかった。
仕事を片付けるのにいっぱいいっぱいで疲れてる体のくせに正直だ。
性欲も三大欲求、か。
好き勝手に荒らされた口が離されると、唾液が僅かに糸を引いた。
切れる寸前、舌舐めずりをしてこちらを見上げる岸先生の顔があってくらくら眩暈。
顔が熱くなるのを感じて、手で覆うけど見えてるだろうな。
初心な態度を取る気はないけど、岸先生と、京一郎さんと恋人になってからはすぐに顔に出る。
久しぶりにキスできて、キスされて、顔が赤くなるほど嬉しいなんて。
学生じゃないんだから。

「わあ……可愛い顔しちゃって」
「からかうのやめてください…っ!!くそ……まだ、仕事中なのに。なにするんですか…」
「ええ〜?そろそろ溜まってんじゃないかなぁと思ってさ。オカズ提供」
「こっ、恋人の台詞とは思えない!!」

岸先生の診断は明日の朝までにおわらせないといけないから、直ぐには無理でも終わりさえすればあとは休みでもいいはずだ。
だから、終わり次第にそういうことかと思ったんだ。
半端に刺激された興奮を期待していただけに返ってきた答えに呆気にとられる。
セックスの誘いかと思った俺が馬鹿だったのか。
赤くなったり青筋立てたり百面相してる気がするが、横暴さは今に始まったことではない。
ゆっくりため息を吐いて心臓と下半身を落ち着かせる。
幸いにも立てなくなる程の変化は出ていないし。
ケラケラと楽しそうに笑う岸先生を恨みを込めて睨みつけて、ソファへ乱暴に横になる。
制服のままだけど、どうせ洗濯するんだし構うものか。

「仮眠してから帰ります、お疲れさまでした」
「いいの?トイレ行ってきてもいいんだよ?」
「しませんから!!くそっ…ほんと、覚えてろよ……っ!!」

確かに岸先生の方が年上なのだけど、からかって遊ばれてるのは腑に落ちない。
性格に問題あるってわかってるのに、それでも好きなんだから俺も悪趣味だ。
横になって目を閉じてしまえば、蛍光灯の眩しい下でも眠りはやってきた。
腹立たしさで一瞬意識は明瞭だったけど、やはり限界だったんだなと現の縁で思う。

「森井くん」
「…なんすか…」

まだ何かあるのか無視だと思うのに、口は勝手に返事をした。
掠れた響きを伴った声で、眠いのがわかる声だろう。
うとうと、微睡みは直ぐにでも意識を手放しそうだ。

「楽しみにしてるよ」
「は……なに…を…?」
「覚えてろってことは、なんかしてくれるんだろ?ナニをしてくれるか楽しみにしてるからね。……おやすみ、久志くん」

息が止まる。
言葉の意味をたどれば売りことばに買いことばで喧嘩になってもいいはずだが、それよりもっと欲情した含みを感じた。
それって、今度こそ期待してもいいってことだよね。
上手い返しなど出来ない俺は、深くため息吐き出すので返事をした。
今度は岸先生の呼吸を奪うようなキスをこちらからすると心に決める。
気を失う程に抱き潰されたって、文句は言わせない。
二人揃っていなくても、宮崎先生がなんとかするだろ、多分。
きっと。
あのスーツを剥ぎ取るのを想像しながら、ようやく現実から手を離した。
起きたらまず、誰もいなければキスがしたい。
だから宮崎先生、今日は遅刻してきてよ。




食欲は二の次





二つ先に満たしてからです。

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