本棚5

□悪魔の子守歌
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臨床検査技師として勤めて、何年になるかはわからないけれどここの病院に骨を埋めるしかないと思っている。
それは良い職場に巡り合えて一生ここで勤め上げるぞ、っていうポジティブな気持ちではない。
残念ながら、決してそんな決意表明ではない。
自分が抜けた後の穴を埋める事がまるで考えられない人員不足に激務っぷりとで、未来予想図を描くことよりも目の前のプレパラートを診断できるようにするのでいっぱいいっぱい。
正直、定年までここで働くよりも過労死で骨が見つかる方がずっと早いとすら思っている。
笑えない。
まったくもって笑えないし、寝てもまるで寝た気持ちがしない。
そんな状況を作っている元凶が、現在顕微鏡と向き合ってしかめっ面をしている岸先生。
しかめっ面をしてるのはいつもというか、デフォルト設定されている顔がしかめっ面なので無表情と言った方があってるのかもしれない。
でも、知らない人から見れば人でも殺しそうな顔で顕微鏡をのぞいているんだからやっぱりしかめっ面か。
遠心分離から戻ってきたのを丁寧にガラスの板で挟んでいく。
すっかり手慣れた作業だけど、失敗が許されないので気は抜けない。
一通り終わったプレパラートの数を確認して、時計を見る。
深夜二時、夜勤勤務体系からは外れているはずの病理にはフルメンバーが出勤している。
全員いても三人ですけどね。
勢いをつけて立ちあがり、銀のトレーを持つ。

「岸先生、できました。お願いします」

何百、もしかしたら何千は言っているだろう言葉を言って机へ置く。
顕微鏡から目を離して僕を見る顔は、やっぱりしかめっ面だ。
ぼんやりしたようで鋭い目がトレーの上を見て、それから一拍送れるようにして頷かれた。
ああこの人も結構、きてるんだなと眠い頭で思う。
眠気で落ちてきそうな瞼をこじ開けて、一生懸命に論破するための材料を探すこの人は負けず嫌いなんだと思っている。
だって、どっちが先に寝落ちるかとか、どっちが上手く目玉焼きできるかとか、くだらないことでも張り合おうとするんだから。
そういえば、ここ最近触ってないなと思う。
俺がこの病院へ過労死により骨を埋めるだろうと思わせている元凶と、なんの因果か恋人関係になっている。
だから俺はきっと、ここに骨を埋めるしかない。

「ん、おつかれ。これで全部?」
「はい。じゃあ、これで…一時間ぐらい仮眠とっていいですか」

これでガラス板をもう見なくて済むと思うと、途端に頭がぼうっとしてくる。
安心から来る眠気に、足元がふらつきそうだった。
というか、すでに視界が廻っててちゃんと立ってるのかわからない。
この状態で次をやれと言われても断固断る所存だ。

「あ、森井くん。ちょっと待って」
「えー……あ、え…」

なんですかもう頭まわらないんですけど、と返事をしようとした口を塞がれた。
強引に掴まれて引きずり下ろされた襟ぐりは、ほとんど胸倉掴まれたのと変わらない。
それなのに、触れる唇はゆっくりと深まって、強引にキスしてきた人のそれとは思えなかった。
久しぶりに触れるそれに、すでに眠気のせいでおかしなことになっている頭が理性を捨てようとする。
ここが病院で、職場だとか、全部が吹っ飛んでいた。

「んっ? あ、ちょっと……京一郎さん?」

追いかけようとしたら、軽く胸を叩かれて突き放された。
してきたのはそっちなのと不満を隠さずに言うと、眉間に皺を寄せて溜息を吐かれた。
嘘でしょ、なんで呆れられてるの。
不機嫌を隠さないで睨むと、視線がすいっと移動した。
その先を追いかけ、そこでようやく気がつく。
小柄な背中が顕微鏡をのぞいている。
ざあ、雨が降る音が空耳。
血の気が引いて、一気に眼が覚めた。

「ッ?! 宮崎せん、せ……?」
「静かにしろ。ついさっき寝落ちたから見てないし気付いてないよ」

そうじゃなきゃキスなんてするかよ、とまた溜息混じりに言われたけどそもそも職場でするのはどうかと思う。
油断していたことに、頭を抱える。
つい最近までは二人しかいなかったから、自分達以外は誰もいないと思いこんでいた。
岸先生がキスしてきたことも油断をさせたのだと思う。
あれ、ならやっぱり岸先生のせいじゃないか。

「今日にはこの患者の件も片がつくだろうから。夜空けておけよ」
「いつもスカスカですよ……誰かのせいで」
「そりゃあよかった。女を抱けないようにしてやるさ」

うえ、喉から言葉にならなかった不明瞭な音が漏れた。
開いた口が塞がらず、とんでもない事をいってのけた人を見下ろす。
なんて人だよ、恋人にするにしても間違ったんじゃないかとすら思う。
けど、横暴な言葉を吐きながら、今夜抱かせてやると言外に語る眼がとんでもなくいい、と思うんだ。
冷やかな色を常に宿す目に、どろどろと溶ける情欲がくすぶっているのなんか、最高。
今すぐにでも抱きつぶしたいって思うのに。

「……とりあえず」
「ん」
「ねます…………」
「ああ、おやすみ」

急激に動かした頭はオーバーヒートを起こしたみたいで頭が急に回らなくなった。
実際問題、宮崎先生が隣で寝ている状態で事に及ぶわけにもいかないし、夜勤勤務の人が来ないって断言もできない。
職場恋愛と言えばかなり聞こえはいいはずなのに。
明確にふらつく足を引きずって、ソファーに倒れ込む。
意識はすぐに泥濘に沈んで遠くにプレパラートと銀トレーが触れる音が微かに聞こえる。
これが心地いい音に聞こえるなんて、本当に末期だ。






悪魔の子守唄







仕事場の音がよく眠れるとかほんと末期だと思うよ。

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