本棚5

□マリーネブラウのインク瓶
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ラインヘルツという貴族の出自であるらしいクラウスさんは、それに見合った価格の身なりをしていると思う。
実際、着ているシャツの肌触りは僕の家にある薄っぺらな毛布よりもはるかにいい。
僕、クラウスさんのシャツを毛布にして寝たいです。
と冗談めかしつつも半分本気で言ったら顔を赤らめられてしまい、つられてこちらも赤くなってしまった。
別に彼シャツをしたいってことではなかったんだけど、そりゃあそういう意味になってもおかしくないよな。
彼シャツというにはあまりにも体格が違っている僕では、クラウスさんのシャツを羽織ると着られているという言葉通りだ。
むしろシーツを巻いているようなものだったので、即座に彼シャツのイメージが沸かなかったゆえの発言だった。
なにせ、頭まですっぱり被れば、ハロウィーンのゴーストと言っても差し支えないほど大きいんだから。
そんな僕を見かねたクラウスさんがプレゼントしてくれた毛布は、我が家で一番の高級品だ。
ふかふかの羽毛布団が、貧相なベッドの上に乗っているのはかなり不思議な光景だけど、安眠できるようになったので寝具の重要性を実感した。
プレゼントの金額を調べるなんてことは無粋だってわかってるけど、同じぐらいの金額のものを贈れるようにと思って検索サイトで調べてみたらとんでもない。
アパートメントが火事になったら、僕はあの羽毛布団を持って逃げた方がいい。
そして僕はあれを盗まれないようにと金庫に押し込んだ方がいい。
おいそれとお返しができるような金額の物ではなかった。
それでも、何もしないというわけにはいかないので、少しずつ細々した気持ちをプレゼントすることにした。
案外、駄菓子とかファーストフードが喜ばれるので、手が出せる範囲で喜んでもらえて本当によかった。
衣服だけではなく、クラウスさんは持ち物も上等な物が多いように見えた。
その中でも、僕が目を惹かれたのは万年筆だった。
記者の見習い事をしている時に、出版社の人に万年筆は一本持っておくといいと聞いたことがあったのも、惹かれた理由だったのかもしれない。
あれは万能ではないけれど、相手の印象も変わるし、上等な物を一本持ってるだけで人間ていうのは気が引き締まるものさ、というのがその人の持論だった。
結局、僕は万年筆を買うことなく、シャープペンシルとボールペンを使っている。
正直なことを言えば高いし、僕みたいな若造が持つのは気が引ける。
まさしく大人のイメージが凝縮されていると思っていた。
クラウスさんの胸ポケットにいつも入っている万年筆は、赤を凝縮した濃い色をしていて、ビロードのような滑らかな光沢があった。
それを使ってサインをする姿は、まさしく思い描く万年筆を使う大人そのままであった。
今日も、クラウスさんはその万年筆を使って書類にサインと確認事項をメモしている。
と、思ったのだけど、今日は手に収まっている軸の色合いが違っていた。
赤ではなく、藍色をした万年筆は、見慣れない光景で考えるよりも先に声がでていた。

「新しい万年筆ですか?それ」

ソファーに座ったまま、指先はソニックに遊ばせたままに声をかけた。
一瞬、クラウスさんは声は自分に話しかけられたと思わなかったのか、きょとりと首をかしげかけてから、手に持ったそれのことだと気がづいたようだった。
ちらっとソニックを見れば、僕の意図を察したのかすぐに肩へと移動した。
今度は手じゃなくて髪の毛を弄り始めた気配がしたけど、まあいいか。
もともと、弄繰り回されたみたいなくせ毛だから乱れても変わりはないんだし。
一人用のソファーから立ち上がり、クラウスさんの机のそばまで歩み寄る。
机を挟んで正面から話せるように歩いていくと、少しずつ視線が動いて僕を追いかけるのがわかって、少しだけにやついた。
猫って動くものを追いかけるっていうけど、それを見ているようだった。
猫は猫でも、クラウスさんはネコ科のライオンって風体だけど。
書類が出したままということは、僕が見ても問題ないってことだ。
万年筆は乾くのに少し時間がかかるのでいつも一番最後に書いているから、それが終わればきっとクラウスさんの仕事も終わりだ。
そうしたら、少しは近づいてもいいはず。
あわよくば手ぐらい触れたいけど、いいかな。
だって恋人なんだもん、触れたいって思うし、抱きしめたいし、抱きつきたいって思って当然だろう。
願うのならば、その先だって求めたい。
貧相な僕だけど、可愛い人を愛して、できれば抱いて、抱きつぶして。
すっかりピンク色になりつつある欲望を軽く頭を振って追い出す。
本人の目の前で夢想することじゃないし、そんなことを考えてしまえば素直に体に反応が出てしまうお年頃というやつだ。

「ああ、その通りだ。新調したばかりなんだが、そんなに目立つだろうか?」
「え?ああ、いいえ。そうじゃないですよ。ただ…えーっと…」

予想していなかった返答に頭にはクエスチョンマークが浮かぶ。
もしかして、クラウスさんが持つには似合わないからすぐに僕が気づいたと思ったんだろう。
それをすぐに察したのでフォローしようとしたけど、それは随分と恥ずかしいことを暴露することになるのに気が付いて言いよどむ。
しかし、不安にさせたままでいるほうがよっぽど恋人として不出来で、恥ずかしいことには違いない。
ええいままよと口を開く。

「クラウスさんの事が、すっ…好きなので、その、僕がよく見てるからで…いつもは赤っぽいやつだったから、違うのに気が付いただけで…ええーっと…似合ってます。青も、とっても」

話始めると少しずつしどろもどろに言い訳ばかりが増えていきそうになったから、一番伝えたいことが最後になってしまった。
似合わないんじゃない、珍しいだけなんだ。
いつもと違う光景に目を奪われて、それにただ興味を持っただけ。
でも嬉しいなってつい思ってしまう。
だって、僕に変な風に見られたくないから不安になったんでしょう。
それが新品であることよりも、自分に似合っているかどうか、僕から見て変じゃないかって思うなんて、特別扱いされているみたいで嬉しすぎます。
クラウスさんはパチリとゆっくりめに瞬きをして目を見開き、それから少しずつ視線をそらしていった。
赤毛に隠れた目元は、燃えるような赤とどうかして顔中真っ赤になりそうだった。
大柄なクラウスさんが、まるで少女のように照れる姿が生むギャップに、ぎゅうぎゅう胸が締め付けられてときめきで死んでしまう。
きっといつか、僕がベッドできゅん死にするのはそんなに遠い未来じゃないはずだ。
その度にクラウスさんが僕を引き戻してくれるのだろうから、やっぱり遠い遠い、未来の話なのかも。

「ありがとう…レオナルドくん。その……実は、この万年筆。インクがブルーなのだ」
「へえ、珍しい気がしますね!どんな色か見てもいいですか?」
「ああ……ロイヤルブルーだ」

メモ用紙のすらすらと乗るインクをながめつつ、書かれた文字に思わず義眼を開いてしまった。
淡い青色の光がメモ用紙を軽く照らしている。
クラウスさんの手によって書かれたのは、整った文字列。
それはよくよく見覚えのある綴りで、僕にとっては僕そのものだった。
ごく一般的な普通のメモ用紙に濃い青色よりも若干紫が混じるような、どことなく水色にも見えるような青色で、レオナルド・ウォッチと書かれている。
間抜けなことに何も言えず、ぽかりと軽く口を開けたままクラウスさんの顔を見る。
メガネの奥のグリーンアイが蕩けて見つめていて、お腹の底から熱が湧き上がってくる。
さらに追い打ちをかけるように、クラウスさんはグレネード弾を投下してきたから僕はなす術もなく蹂躙されるしかない。

「ロイヤルブルーは高貴な色と言われている……君にとっては忌まわしいかもしれないが、やはり美しい君の瞳に、よく似ていると……そう思って、つい………レオナルド君?どうしたのだね、そんな…しかめ面をするほど、やはり瞳の事を褒められるのは嫌だっただろうか…すまない、思慮が足りず私は君を傷つけて…」
「い、いえっ!そうじゃなくて……!ぼく、いますっごくうれしくて…にやけちゃいそうで…我慢してるんですけど…ああもうすっごい嬉しいです。ありがとうございます、クラウスさん」

机を挟んで少しだけ遠い手を掴んで、万年筆を握ったままの手に口づけた。
僕の名前を書いてくれたクラウスさんの手は大きくて、僕が両手で包んでも余るほど。
書き物を丁寧にして、パソコンを見つめてタイピングして、時には握り拳をつくって敵を粉砕する手が、懸命に僕の手を握って、指先を絡ませてひとつになろうとしてくれるかを知っている。
知っているからこそ、僕はこの手をたくさん慈しんで愛して、同時にクラウスさんという人を好きだと実感したことを伝えたい。
ちょっと貸してください、と顔を赤らめたままのクラウスさんから万年筆を借りて、メモ用紙を引き寄せる。
クラウスさんの書いた僕の名前の隣に、一度もらった名刺の綴りを思い出す。
本国では時折目にしたドイツ語の綴り。
青いインクで書かれたクラウス・V・ラインヘルツ。
お世辞にも上手いとは言えない字が、綺麗に整った字の隣にならんで不格好さが際立っている。

「僕の色をしたクラウスさんですね」

悪戯を告白するような気持ちで告げれば、思った通り真っ赤になっていく顔が愛おしくて仕方ない。
ちらっと肩に乗ったままのソニックに視線を送ると、じとりと目を細められた。
ウィンクをしてお願いをしてみると、やれやれって顔をして首を振ると窓へ向かって大きくジャンプしていくのが見えた。
邪魔とは言わないけど、さすがにお前の前でキスをするのは恥ずかしいからさ。
机に手をついて足を浮かせ、顔を近づければ目が見開かれる。
うろうろ躊躇うそぶりを見せてから、おずおずと目を閉じられる。
誰もいないのをいいことに調子に乗った僕はキスをして、やっぱりクラウスさんが好きなのだと実感しつつ、僕はどうにかしてロミオにならなければいけないのだと思った。
身分違いの恋だからなんて、言っていられない。
結末だけは悲劇じゃなくてハッピーエンドだけど。








マリーネブラウのインク瓶






Marine-blau(マリーネブラウ)=ネイビーブルー=藍色

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