本棚5

□番頭さんがスペイン語を話すレオスティ2
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「あっ」

と、声が出るのと陶器が割れる音がするのはほとんど一緒だった。
部屋に訪れた衝撃音に、視線が集まるのを感じる。
嗚呼、やってしまった。
顔を覆うけど、それで時間が戻るわけでもない。
経費の処理をした書類を積んでいったらそれが山になり、その陰に置いてあったカップが隠れていた。
言葉にすればなんとも間抜けで、実際起きてもやっぱり間抜けだった。
日々の書類は多くない。
各所から上がってくる報告書、経費、雑務連絡事項。
しかし、タイミングが悪かった。
月末で経費書類をまとめて確認していたのが悪かった。
机の上が手狭になって、書類の山が邪魔なので少し押したら、影にあったカップが押し出されてそのまま落下した。
冷静になればなるほど、自分の迂闊さが嫌になる。
破裂音にも似た音は、机の下を見なくたって如実に惨状を伝えていた。

「大丈夫っすか?」

物珍しさを隠そうともしないザップが、ソファー越しに振り返っている。
書類も足元も問題はないが、マグカップは見るも無残に粉々だ。
カップの中身が空だったのは運がよかった。

「いや…駄目っぽいな…」
「えっ、怪我したんすか?」
「いやいや、それは平気なんだがマグカップがお釈迦だ」
「あー…ご愁傷様です」

両手を合わせてお辞儀をしただけで、立ち上がる様子はない。
元よりザップが片づけを手伝ってくれるとは思っていないが、素振りがまるでないといっそのこと清々しい。
それに、ザップが下手に出てくるときは大体が金の無心だ。
下手に親切にされるよりはずっと面倒がなくてマシだろう。
小さくため息を吐いてから立ち上がる。
大きな欠片を拾ってゴミ箱へ放り込み、ホウキを探しに行く前にすでにギルベルトさんが持ってきてくれた。

「ああ、すみません」
「いいえ、なんてことありませんよ」
「あとはやりますから」
「そうですか、ではこれで」

自分が落としたのもあって、それを人に片付けさせるのは気が引けた。
申し出れば嫌味にならない仕草と口ぶりでホウキとチリトリを貸してくれる。
ラインヘルツ家の執事は皆一様に人間として出来上がっているのだろうか。
その中でもギルベルトさんは別格な気がしてならない。
ザラザラと陶器が音を立てる。
すっかり無残な姿になってしまった青いカップ。
思い入れがあるわけでも気に入っているわけでもないが、それでも結構長く使っていた。
棚にあれば自分のカップだと無意識に手を伸ばしたし、気を利かせて入れてくれることだってあった。
同じデザインのがあれば問題ないが、購入したのは三年前。
執務室を設置した際に、自分用で置くために買ったんだ。
毎日が嵐のような騒がしさで人が入れ替わるヘルサレムズ・ロットに同じデザインがある可能性は極めて低いだろう。

「珍しいっすね。スターフェイズさんが物落っことすなんて」
「なに言ってんだ。結構おっちょこちょいだよ、俺は」
「嘘だ〜完璧超人みてぇな人こそなーに言ってんだか」
「ははは、お前は俺を随分と買い被ってるんだなぁ」

一通りチリトリへおさまったそれは屑籠の中へ。
分別なんかしなくたっていいだろう、世の中の全てはなんだかんだ全部が全部燃えるごみでできているんだから。
掃き終わったのを見計らったように、来客用の小さめのコーヒーカップを御盆の上に乗せたギルベルトさんが来て椅子の正面にわずかに空いていた隙間へと置いた。

「どうぞ、代わりの物を探しに出る前に一服されてはどうですかな」
「ありがとうございます。では早速」
「掃除用具はお預かりしましょう」
「なにからなにまで」
「それこそ私の生きがいですから」

嫌味なところがなに一つなく、ごく自然に行われるやりとり。
ラインヘルツには善人しかいないのではないかと錯覚しそうだ。
善人の筆頭は、われらがボスのクラウス。
今日はいつもの園芸サークルとやらに一日外出なので、定位置は空っぽ。
ソファーには相変わらず惰性を体現したようなザップと執務室やそのほかをせわしなく行き来しては諸事を片付けているギルベルトさんぐらいしかいない。
この事務所だけ見れば、なんとも平和。
ひとたび街に出れば有象無象の跋扈する異界都市とは思えない。
大人しく椅子に座って、まだ湯気の立つコーヒーカップを手にする。
鼻先まで持ち上げて深呼吸すれば、肺いっぱいに贅沢なコーヒーの香りがする。
自分で淹れるとついインスタントの粉を適当に溶かすだけで済ませてしまうのだが、ギルベルトさんはちゃんとドリップ式の物を出してくれる。
だからこれは贅沢なコーヒー。
自分がいれる、口さみしさを紛らわすだけの物とはわけが違う。

「はあ…」

一口嚥下すれば肩の力が抜けていく。
贅沢で間違いなく美味しいと思えるコーヒーのおかげなのか、コップの落ちた音がきっかけなのか、すっかり書類を片付ける気分じゃなくなってしまった。
とりあえずこれ以上の惨劇を繰り返さないために、書類は一山におさめて机の端に移動した。
報告書ぐらいは目を通そうとファイルを手に取ってめくっていくが、それも気がそぞろで落ち着かない。
飲み干したカップを手に取って、給湯室に顔を出せば待ち構えたようにギルベルトさんがいる。

「ちょうどよかったですな。お預かりしましょう」
「なにからなにまで」
「なんの、ボケ防止にご協力いただきましてこちらこそ」
「そこまでお年じゃないでしょう?」
「早いうちから予防が大事だと聞いてますからね」

僕もうかうかしていられないなぁ、と軽く世間話をしてから辞退する。
それから椅子に座らず、ジャケットを取り腕時計をはめる。
協力者のご機嫌取りにでも行った方が建設的だろうな、こんな集中力にかけるのじゃとんでもない書類を作りかねない。
さてどこのご機嫌取りに行こうか。
マンハッタンまで足を延ばすには少し時間がかかるかもしれない。
旧モンロー・ストリートはこの間の区画くじで確か近くに移動されたんだったな。
それならヘンリーの店がいいだろう、ついでにリオノーラのところでコーヒーを買っていいコーヒーカップが売ってる店がないか聞いてみようか。
身支度を整えて携帯電話と財布を持って外へ。
途中、すっかり惰眠を貪りそうになっているザップの頭を軽く小突いた。

「んあ?」
「ちょっと出てくるよ」
「あーい」

ソファに横になったままひらひらと手を振ってまた微睡そうになっているザップに、そういえばと会話を続けた。
足は止めずにそのまま正面の入口へ向かう。

「それとザップ、二週間前にお前が行って潰してきたキャバレーの報告書、まだ上がってないから戻ってくるまでに書いておけよ」
「えっそんなのありましたっけ?」
「あったあった。戻ってくるまでに出来てなかったら来月の活動資金、お前だけ現物支給にするからなー」
「はあ?!現物って?!」
「飯とか。じゃ、行ってくる」

横暴だ、と叫ぶような声を背後に聞きながらドアを閉めた。
空間が切り替わっていくのでもう声は聞こえないが、おそらくは罵詈雑言の限りをドアに向かって吐いているに違いない。
どうせ書類をまとめてあっても多少は手直しする必要があるんだから、まあその脅しも意味がないだろうな。
ライブラで構成員として仕事をし始めた当初と比べれば、随分とましになったんだけどなぁ、どうしてああも文字が下手なのか。
まともな文章を書けるようにちょっと厳しく指導したのだけど、それ以降自分の書く文章と似たような言い回しや言葉遣いの書類を出してくるのはなんとなくほほえましかったな。
覚えたての単語を使いたがる学生みたいで。
左手のドアを開けて一歩踏み出せば、むせ返るような霧。
路地裏は風のとおりが悪いせいか、霧が滞留しやすい。
そのくせ気温だけは高いから熱帯さながらの湿度は、肌にまとわりついてきてきりがない。
メインストリートへ出ればようやく呼吸も楽になってくるが、それでも上空に淀む霧は変わらない。
いつもよりは霧が薄いけど、青空を拝むのはまだ難しいだろう。

「あれ、スティーブンさん。おでかけですか?」

人並みにまぎれようとした瞬間、背後から声がかかる。
振り返らなくてもわかる声だった。
想像した通りの姿で、振り返るとレオナルドが立っている。

「嗚呼、気分転換でね。少年はバイト帰りかい?」
「はい。執務室に顔を出そうかなぁと思ってたんですが…気分転換って、仕事のついでですか?」
「うん。まあ、そうだね」

多少、歯切れが悪い返事になったけど平気だろうか。
これから枕営業、ではないけれどご機嫌取りで歯の浮きそうなセリフを吐きに行くなどさすがに言えなかった。
誰にもいえるわけない。
それに、レオナルドは恋人だ。
いくら仕事のためとはいえ、おおっぴらに言うのははばかられた。
とんでもないことに、俺はこの一回りも違う少年に、嫌われたくないのだ。
とんでもないさ、本当に。
今更ラブロマンスなんて、寒々しいだろ。
笑ってしまうほどに。

「ついて行ってもいいですか?」
「え」

少年は少しだけ躊躇うように口を閉じてから、予想していなかった提案を口にした。
まったく予想をしていなくて、反射で声が漏れた。
言葉にはしていないけど、一緒に来られてはまずいと思っているのがありありとわかる反応に、内心で舌打ちをする。
もっとうまくはぐらかすことができるはずなのに、今日は調子がよくないのだろうか。
両手を大慌てで振る少年は、僕の内心の焦りよりもずっと焦っているのがよくわかった。

「いや、その、差支えなければってだけで、無理にとは言わないんです!その……最近、スティーブンさん書類整理とか事後処理で忙しかったじゃないですか…で……デート、っぽいのが、したいかなぁ…とか…」

まじまじ眺めていると、言葉はどんどん尻すぼみになって顔はそれに比例して赤くなっていった。
上から見下ろすほどの身長差がある少年は、いつも顔の輪郭を隠すような大きめの上着を羽織っている。
正面からならば隠れている首筋が、見下ろす距離にいると真っ赤なのがよくわかる。
特徴的なくせ毛から覗く耳も、痛々しいほど赤い。
その初々しい、年相応の反応を素直に返してくれるレオナルドが、愛おしくてたまらない。
相変わらず歩き出しもしない僕たちを通行人は怪訝な顔をして通り過ぎていくけれど、知ったこっちゃない。

「少年、…kiss」
「え…」
「Kiss me」

腰を折って距離を詰める。
細く閉じられた瞼の中から、スカイブルーが溢れる。
目元を蒼く照らすそこは、近づくほどに焦点を合わせているのか揺らぐのがわかる。
とん、とん、自分の唇を軽く叩けば意味はすぐに通じたみたいで、さらに顔を赤くさせていった。
まるでクリスマスローズのような、初々しさを塗り込めた赤面。

「い、いまですか…?」
「そう、今」
「こっ…ここで…?」
「そう、ここで」

問いかければ問いかけるほど、逃げ場をなくしていることを少年は気づいていない。
期待をして、無意識に自分を追い詰めている。
意識してやっているのならば問題だけど、少年に限ってそれはないだろう。

「Dame un beso」

小首を傾げて催促。
言葉はわからなくても、雰囲気が伝わるだろう。
これ以上赤くなれないほど染まった顔で、少年は悔しそうな表情をした。

「ずるいっすよ…そんなの…」
「だぁれも見ちゃいないさ」
「そこじゃなくて…その、スペイン語…」

今日はやっぱり、どうにも本調子じゃないのか、この短時間で何度も驚かされている。
不意打ちにだって対応できるぐらい、心得はあるつもりだけどな。
そうだ、ついぞ前に宿題を出したんだ。
その時に一緒に知ったのかもしれない。
口元が緩んでいくのを止められなくて、くつくつと喉の奥で笑う。
勉強熱心なのを可愛いと思うのは、まさしく年上の特権だ。

「関心したよ、少年」
「子ども扱いしてます?」
「いや、年下扱いをしている」
「どっちも同じじゃないですか!」

いやいや、子供扱いと年下扱いじゃちょっと意味が違うさ。
子供扱いじゃまるっきり君は庇護対象だけど、年下扱いならばただの年下の恋人だ。
それにレオナルドが気づくのはどれだけ後になるかわからないけど、少なくとも僕らにはまだ猶予がある。
その猶予は明日かもしれないし、ほんの数時間後かもしれないけれど、確かに存在する執行猶予期間。
永遠は存在しないのだから、今を贅沢に生きてもきっと、罰は当たらないはずさ。
死んだ後にちゃんと、精算するから。

「それで?」
「はい?」
「Kiss?」
「………Yes、あー………Stellina mio」

小さな声で囁かれた口説き文句をそのまま押し付けるようにキスされて、そのまま大きな声で笑い出したくなる。
頑張ったじゃないか少年、イタリア語が話せるなんて知らなかったぞ。
そう言ってやるのはもう少し先だ。
通行人の視線なんてもうかまってやれないぐらい、小さな恋人のキスで頭がいっぱいなんだから。
満足できたら予定は変更だ。
少年を連れて、マグカップを買いに行こう。
恋人が選んだマグカップで飲むコーヒーは、さぞ美味であろうから。
表皮に触れるだけのキスは少し震えていて悪くないけど、物足りない。
もう一度だけ、少年、お願いだ。

「レオ、…Dame un beso」









キスして






キスして、って強請るのは可愛いのにエロいからずるい。

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