本棚5

□赤い林檎の美味しいパイ
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年若い、と言っても僕より四つほど年下の男を年若いというには少々無理があるだろう。
出会った時はたしか、ちょうど三十歳だった。
それから二年、大崩落が起きて今年はちょうど三年目。
だから今年、彼は三十二歳になっているはずだ。
そんな男を年若いというのはふざけていると思われても仕方ないだろう。
実際、多少ふざけてそんな扱いをしてやっている時もあるのだが、本人もそれをわかっているからジョークとして流してくれる。
彼は、僕の言葉を真面目に取り合ってくれないから気が楽だ。
なんでも真面目に受け取って、真剣に考えて、なおかつ事件の内容によっては胃に穴が開きそうなほどに考え込む心配性なボスとは違う。
そのせいか、普段よりもずっとものを考えなくてもしゃべっていられた。
何を言っても話半分で、大事なところしか聞いていないだろうから何を言っても気にならなかった。
同時に、相手がどんなに気分が悪くなっていても問題はないと思っていた。
この小さな異界都市ヘルサレムズ・ロットでポリスと言ったら、一般人よりもはるかに死亡率が高い職業だ。
その分、給料は破格であるが三日後に死ぬかもしれない人間に払うお金としては安くも思える。
生き物に価値を付け始めたらきりがないが、それでも命を張ってやる職業にしていは警察官の給料というのはいささか安すぎるだろう。
そんな、身にもならない職業につく彼は、三日後には殉職して二階級特進しているだろうと思っていた。
ダニエル・ロウ巡査部長。
権限を持つにはあまりにも一般的な巡査部長という職業の彼とは、そんなに顔を合わせたわけじゃない。
揃いの紺色の制服は霧の街に文字通り融け込んで背景の一部のようだった。
しかし、大崩落が休息を迎えて都市の形が落ち着いたばかりのニューヨーク市警には人が少なく、また小競り合いに巻き込まれてどんどん人が減ったから必然的に顔を合わせることが多くなっただけだ。
事件が起きればそこにやってくるポリスの顔は、嫌でも見覚えのある人ばかりで、それはあちらも一緒だっただろう。
一瞬、どちらを撃つべきなのか迷わなくなったのはいいが、あまり顔を覚えられても困る。
こちらは公的機関ではなく、慈善事業の自警団に近い。
被害や事件の責任を負わない、正義の味方。
警察からすれば厄介事と厄介事が喧嘩しているようなものだから、捕り物の最中は協力体制だが、終わればすぐに任意での事情聴取が待っている。
それに毎回付き合うのも、付き合った挙句に上層部から帰らせろと指示されるのもお決まりだ。
躍起になって捕まえようとすればするほど、もっと上から揉み消されることを覚えたので、最近は警察も滅多にはこちらに手を出してこない。
一度、クラウスが已むに已まれず任意同行を受けた時はラインヘルツ家から直々にもみ消しがかかったのは三年経ったいまでも記憶は鮮明だ。
しかも、本家からお呼び出しを受けたのだからそれなりにおおごとだったのだろう。
帰ってきたクラウスが神妙な顔をして、積極的に警察をまくことに賛同したのでよっぽどの事があったのだろう。
さすがに家の事を突っ込んで聞くのは憚られたので聞いては無いが。
待ち合わせ場所に人はまだいなかった。
腕時計を見れば、あと十五秒で待ち合わせの時間だ。

「はえーな」

気配と同時に声がした。
よくわかってる。
不用意に近づけば殺されかねないということを弁えているからこそ、姿を見せてすぐに声をかけるのだ。
敵意はなく、手錠をかける気も無く、不意をつくつもりはないと言外に。
振り返って紺色の制服を探す。
廃工場というベターな場所で人を探すというのもおかしな話だが、振り返った先の人物が予想外の姿をしていたからだ。
白いシャツ、ただのワイシャツに赤いネクタイ、それとトレンチコート。
僕の記憶が正しければ、ニューヨーク市警の制服は上層部まで決まっていたはずだ。
そして彼は勤務時間で、人事部の娘から貰った勤務割りでは勤務日だ。
いつもの紺のシャツの制服ではない姿に、思いつく答えはそんなに多くない。

「昇進ですか、巡査部長」
「前任が田舎へ引っ込むって言うから繰り上げ当選だ」
「結構持ちましたね、前の警部補は。…NYPDの制服ではないんですね?」
「この街でよくぞ二階級特進もせずに退職できたなって送別会は盛大だろうな。あんな防御力もねえ制服はもう止めだ。それに、新品配った先から破れていくからもう製造するだけ無駄だ。それよかポリスーツ着せてる方がまだ生存率下げなくっていい」
「なるほど。ではもう巡査部長とは呼べませんね、あー…ダニエル・ロウ警部補?」
「しかし、てめえのとこも随分と組織がでかくなったみてぇじゃねぇか。ライブラ副官殿」

売り言葉に買い言葉のようなやり取りだが、琴線に触れるほどではない。
用件を切り出す前のウォーミングアップにすぎない。
カチン、ジッポを取りだした見慣れない姿の男の言葉を待つ。
今回はあちらからの呼び出しだ。
こちらから水を向けるのは得策ではない。
どこからナイフを突き立てられるか、たまったものではないのだ。
ニューヨーク市警の中でも若い部類だが古株のこの男とは、何度か情報の取引をライブラとして、私設部隊として、個人として行っている。
お互い利用し合っている関係は気楽でまた、互いの事に興味がなかったのがよかった。
ダニエル警部補は警察官としての立場を崩さなかったし、僕もライブラの構成員としての態度を崩したことは無い。
今日はそれに変化が起きる日だった。
何かが起きる時と言うのは何かが変わってしまう時だ。
良い意味でも、悪い意味でも。
煙草を吐いた男は、相変わらずの厚めの前髪で片目を隠している。
それが表情を読みづらくさせているから、とんだ喰わせ者だ。
僕らは互いの尻尾を掴みたくて、躍起になっている。
ダニエル警部補は煙草を吐くと、埃が厚く積もった床に灰を落として、それを靴底で踏んだ。
これだけ埃っぽいと、何から引火するとも限らないから当然の仕草だろう。

「さて、今日は俺の昇進祝ってことで一つ、無償で頼まれちゃくれねえか」

にやと口元を歪ませて笑いながら言うそれに、二の句がつげずにぽかんとしてしまった。
なんともまあ、大雑把な話の振り方だろう。
しかし、その唐突とも、話の流れとも言える用件の切り出し方はなかなか効果的だった。

「ふ、ふふ、あっはははっ!はー…まったく、なんて人だ。あなたは」
「おいおい、俺はコメディアンになったつもりはねーぜ」
「わかってますよ。いいですよ、ライブラとしてじゃなく、僕個人としてその頼み聞きましょう。無償でね」
「………気持ちわりぃな、何か企んでんじゃねえか?」

自分で言ったくせに、要求を飲まれると疑ってくるなんてあんまりだなぁ。
僕も同じことをされたら、きっと同じことを返すのだろうけど。
なんだ、思ったよりも僕ら似たもの同士なのか、最悪だな。

「なら、僕が昇進したらそのお祝いでなにか一つお願いきくってことなら、いいでしょう?」
「お前の組織に昇進なんてもんがあるのかよ」
「すぐ上がトップなんですよね。ボスは不動なんで、昇進するなら彼が死なないとかな。繰り上げ当選しかうちはないんで」
「あの巨漢が死ぬって事態が起きてる時点で俺が生きてる可能性はゼロに等しいじゃねーかよくそったれッ!」

とことん借りを作りたくないのか、心底嫌そうな顔をして言う。
頑固だなぁほんとうに、まるで誰かを彷彿とさせる。
眼鏡をかけたボスとは違ってしたたかで、同族嫌悪をすらしそうな相手だけど。
僕の近くにはいない人物で、珍しくって、悪くない。
もうしばらくは、ダニエル警部補はきっと死なないだろう。
この性格は部下に慕われこそしても、上司に可愛がられるタイプじゃない。
憎まれっ子世にはばかるっていうしね。

「なら、サブウェイ奢ってくださいよ。ランチがまだなんで」
「………そっちのが安上がりだな。ならいくぞ」
「え」
「あ?」

戯れに言った提案だったのに、ダニエル警部補はそのまま受け取ってくれてしまった。
それに間の抜けた返事をしてしまったのは、何かが起きてしまう予兆のひとつだ。
ほらやっぱりな、自分で提案したくせに躊躇う。
まったく一緒の反応だ、腹が立つほどに。

「提案したのはお前だろ。なに間抜けな顔してんだ」
「いやー…まさか了承されるとは思っていなくて…」
「俺も昼飯これからだからちょうどいいんだよ。ついでだ、それに、借りはごめんだ。それを引き合いにナニされるかわかったもんじゃねぇ」

予想通りというべきか。
まったくもって理想通りの展開過ぎるが、なんとまあそれが心地よいものか。
埃を微かに舞わせて歩きだす。
ダニエル警部補に触れられる距離まで近づけば、かっちりと目が合う。
大きな目元に反して、小さな虹彩が穴の空いた天井からの光に照らされている。
頑固で真っすぐ前を見て逸らさない人間は、やっぱり苦手だ。
嘘も仮面も、なにもかもを見透かされている錯覚を覚える。
ぼくばっかりを悪者にしないでほしいよ、まったく。

「それじゃあ、よろしくどうぞ。ダニエル・ロウ警部補」
「そっちこそちゃんと駄賃代働けよ。自称会社員様」

距離感が変わってしまった。
触れることを許される距離を共有してしまうなんて、惨たらしい日だな。
このままこの男に手酷くセックスして抱かれた方が、ずっとマシな日になると夢想するほど。
平和ボケは死が近くなるっていうのに。
隣に立つ少し小さなトレンチコートの男を横目に見ながら、どうにか清廉な顔を乱す為の策略を巡らせる。
こんな友人に近しい関係ではなく、もっと、爛れた利害関係にならなくては。
君が僕を抱いて、罪悪感を感じる様な、そんな関係に。




堕落の実で作るパイ





アップルパイ食べたい。

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