本棚2

□水底の涙
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 鮫ざめ泣く。
 さめざめ泣くと言うと、鮫が泣いているように思えた。あの獰猛で立派な歯を持った、恐ろしさを体現した様な鮫が泣くというのだから、どれほどの悲しみであるのだろう。痛みによる悲しみであるのか、失恋の悲しみなのか、それとも家族を亡くした悲しみであるのか。私にはとてもじゃないが想像できなかった。
 そもそも、さめざめ泣くとは涙を流して泣く様子の事で鮫と関係はないのだから、意味のない妄想なのだけどそれでも私は考えた。
 鮫が泣くほどの悲しみはどんなものなのかと身勝手に、軽々しく、空想する。

「ひよどりさん」

 ざぱり、深い海の中から空気の触れる丘へ上る。深く深く沈んでいた思考は酸欠の様にくらくらして、しばらく自分がいる場所がわからなかった。ここは何処で、今は何年の何月で何日で何曜日なのか。それすらも私の手の中から放り出されてしまったように、空白が存在した。
 ようやく自分が名前を呼ばれた事に思い至って、はいと半分聞き返すように返事をすると、私をひよどりさんと呼んだ幾分か年下の彼は溜息をまるで私に浴びせるように吐いた。
 酷いと非難の言葉の一つでも返したい所だったけれど、彼の顔を見る限り私が随分と彼の言葉を上の空で無視してしまったのかがわかったので大人しくする。彼は怒ると怖いのだ。

「一体僕が何回呼んだと思ってるんですか、ひよどりさん」
「一度じゃない事はわかっているよ」
「最後の一回しか聞こえてなかったんですね、ひよどりさん」
「そういうことになってしまうね」
「何か僕に言うべき事があるんじゃないでしょうか、ひよどりさん」
「ええと…返事をしなくてどうもすみませんでした…」

 オプションで深々と頭を下げてみれば、ようやく彼の機嫌が直ってきて、一安心。
 ふわふわとした茶髪を四方八方に跳ねさせて、市立高校の制服を着ている、私をひよどりさんと呼んだ彼は、昔馴染みのお客さんだ。また、彼のお母さんのおばさんの妹に当たるのが私の母で、一応は遠い親戚という事になる。
 その遠い親戚の彼とは、家は近かった為に他の親戚よりは交流が深かった。それが理由だと思うが、とても懐かれている。高校二年生に懐かれていると言うのも変な話だけど、十五歳も離れているのだ。
 つまり私が十五歳の時に、彼は二歳ということになる。つまり彼が十七歳であって、私は三十二歳ということになる。

「また性懲りもなく商品に埋もれて寝てるんですから!発掘する方の身にもなってくださいよ」
「ごめんね。だって、図書室の不要になった蔵書とかとても面白そうでね。気になったので読み始めてみたらどうにも止まらなくなって、片づける間も惜しいほどだったんだよ」
「いつから読んでるんですか」
「ええと、確か小学校の先生が来たのが開店と一緒の十時だったから…ええと、今何時ですか?」
「…午後五時ですよ、ひよどりさん」

 深いため息に、私は思わず目を逸らす。きっと、溜息に色がついていたら彼の溜息は雨の降り出しそうな灰色である事だろう。
 私の家、つまりは彼の母のおばさんの妹になる母がしていたのは小さな古物商だった。古物商と言っても骨董品だけではなく古い本や服、他にも使い方のわからないガラクタを置いた一種のリサイクルショップのようなものだ。

「あぁもう…周りが見えなくなる癖どうにかしたほうがいいですよ」
「ごめんね」

 私が本に埋もれて瞑想していたのは店の中の一角で、恐らく彼は姿が見えないんで探してくれたのだろう。
 彼はとても優しいのだ。大学四年生の時、唯一の家族である母が亡くなった時も彼は私の隣にいてくれた。あの頃、彼はまだ九歳で小学生だったのに。

「あと、お袋が今日はカレーにするから連れて来いって」
「へぇ、楽しみだ」

 大学を卒業して、すぐに家を継いだ。その事に抵抗はなかったし、自分がサラリーマンをする姿も想像できなかったから都合がよかった。
 手続きは大変だったが、何よりの障害は親戚の反発だった。薄々気づいてはいたけれど、母は変わり者の鼻つまみ者だったのだ。頭を下げて、押し切って、どうにかもぎとって、店を再開した。
 ふと、手元にあったインドとカレーの歴史という本があるのが見えて手に取る。厚みはあるけれど、図解が多い本のようだ。

「ねぇ、聞いてるの?」
「うんうん、今日のカレーは何カレー?」
「今日は豚カレー。あのさ、僕にお店手伝わせてよ。給料とかいらないし」
「どこで?」
「ここで」

 ぺらぺらと本をめくっていくと、タイトルには歴史とあるけれど料理本の要素の方が強いみたいで、図解のほとんどが料理の手順のようだ。小学校の図書館だからそんなに難しいはずがないのだけど、明らかに料理の説明が本格的なインドカレーの作り方でさらに興味が湧く。
 カレーの味付けも本格的なスパイスの調合からで、どう考えても日本の一般的なスーパーでは手に入りそうもない香辛料ばかりがレシピに並んでいる。これはなかなかにマニアックというか、子供向けじゃない本だなと口元が緩む。

「雛子おばさんの方がまだ整理整頓できてましたよ。ひよどりさん、あれじゃあゴミ置き場と勘違いされる日が遠くないです」
「うーん、大丈夫だよ」

 さらにページをめくっていくと、ようやく歴史の説明が出てくるが簡素で少ない。歴史について詳しく書いてあるならインドとカレーの歴史というタイトルでいいのだろうけど、これではタイトル詐称ではないだろうか。
 正しくはきっと、本格インドカレーの作り方歴史豆知識つき、がきっと正しい。作者の人はきっとカレーのレシピ本が作りたかったのだけど、編集の人がオッケーを出さなかったんだな。

「ねぇ、ひよどりさん?」
「うーん」
「聞いてますか」
「うーん」
「聞いてないでしょう」
「うーん?」

 しかし、歴史は学べなくてもカレーの作り方はとてもわかりやすい。スパイスの用意は出来なくても、キーマカレー風味ぐらいだったらなんとか出来そうだ。
 写真は残念ながら白黒の物が多いので、見比べながら作ることは難しそうだけど。ホワイトシチューがビーフシチューになってしまう私が出来そうだと思うのだから、相当わかりやすい本だと思ってもらって間違いない。

「…っ、…ひっ…ぅ」
「んー」
「うぅ…っ…」
「…ん?」

 カレーの材料をどこで買おうかと考え始めた頃になってようやく私は会話に違和感を覚えた。いや、そもそもどこからどこまでが会話であったのか、正直覚えていないし何を言ったのか、返事をしたのかも定かじゃない。
 顔を上げれば、立ったままの彼が追う粒の涙を流して泣いていた。うっかりしていた。
 怒ると怖い彼は、泣き虫なのだ。

「ひ、よどりさんなんか、…もう…」
「あぁ…あのね…その」
「もう、知りません!人の話も聞かない人のことなんか!」

 決壊した嗚咽に紛れて、彼は私を非難した。その非難は尤もなので言い訳はしない。
 そこでふと、さめざめ泣くを思い出す。
 彼の様子はさめざめ泣くというには些か激しいけれど、泣いているのは合っている。
 もしかすると、鮫も話が通じなくて泣くのかもしれない。同じ種族である仲間と話が出来なくて、静かにさめざめ泣くのかもしれない。私と彼も同じ種族なのに。

「ごめんね、鮫島君」

 嗚呼、そういえば、彼も鮫だったのだ。







超短編というのに応募したやつ




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