本棚2

□神様の生存証明
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カンカン、と乾いた音が鼓膜を揺らす。
むき出しの鉄の感触を靴底で確かめながら、一歩一歩確実に踏みしめて、僕は高みへと上っていく。
それは比喩表現でもなんでもなく、単純に状況を描写するだけの言葉そのもの。
規則的に革靴の底を打ちならして、単調作業の様な音を聞きながら深紅の目をした彼の事を考えていた。
猫田高校に通う安藤という彼。
僕の予定、神様のレシピを変えるかもしれない、彼。
安藤君の姿を鮮明に思い浮かべた途端に軽やかになった気がする靴音は、リズミカルな音楽にも聞こえる。
そういえば、どこかの誰かがボブ・ディランは神の声だと称しているのを聞いたことがある。
僕はそれにとても共感したのを覚えているのに、どこの誰が言ったのかは思い出せなかった。
彼の声、そのものが神様になり得るのだ。
屋上の踊り場、その行き止まりにある塗装の剥げたドアを開けると吹きつける風が奥の髪を乱した。
少しだけ目を細めて前を向くと、扉を開けた先、フェンスを背景に立つ人物が目に入る。
さっきまで思い描いていた安藤君本人がそこにはいた。
彼は強く吹く風の音のせいかドアが開いた事に気付かなかったようで、僕が来ている事もしらずに屋上から先へと延びる街並ばかりへと視線を向けている。
それを良い事に、なるべく靴音をたてないように歩きながら、ゆっくりと彼に近づく。
そうして、もう一歩踏み出せば簡単に彼を腕の中におさめてしまえる距離で足を止める。
考え事をしているにしても、背中を無防備にするのは感心しないよ。

「安藤君」
「…ッ!…い、ぬかいさん…?」

びくりと、肩を盛大に揺らした彼はまるで幽霊の存在でも確認するかのようにおそるおそる振り返る。
ようやく僕を捉えた丸い瞳がさらに丸くさせて彼がうろたえる。
赤い瞳がふるりと揺れて、その些細な反応にさえ愛おしいなと思った。
しかし、一体彼は何に怯えているのだろう。
僕と彼は世間一般的に見れば許されない恋をしているかもしれないけれどれっきとした恋人同士だと言うのに。
何をそんなに焦る必要があるのだろうね。

「二人きりで会うのは、久しぶりだね」
「えぇ…まぁ…」

焦りから一変、彼の顔色が朱色に染まる。
赤い目と同化してしまいそうな顔をふいと逸らして曖昧な返事をするけれど、その照れ隠しにもなっていない仕草が愛しくて、安藤君に会う度に僕は彼がたまらなく愛しいのだと実感する。
変装用にと付けている伊達眼鏡のレンズの隔たりすらもどかしくて、外して裸眼の状態で彼を見る。
たった一枚、されど一枚。
さっきよりもずっと可愛い君の姿。
彼の隣にまで歩を進めて、一度だけ彼から視線を外して眼前に広がるビル群へと目を向ける。
相変わらず、猫田市の風景は灰色で色がない。
空の青も木々の緑もあるのだけど、鮮やかさを欠いていてモノクロの景色を見ている様な気分になる。

「ねぇ、安藤君はどうしてここに居たんだい?」
「どうしてって…」

僕と安藤君がお互いを認識して、初めて会った場所。
そこに会いたいと思った君が居てくれた嬉しさに、すこし意地の悪い事を口走る。
君も僕と同じように会いたいと思ってくれたのではないかという希望的観測の自惚れ。
それを勘違いとわかっていながらも、問いかけずにはいられない僕にはもしかしたら自虐趣味でもあったのかもしれない。

「僕には言えない理由?」
「…犬養さんに、会えたらいいなと思って」
「へぇ…それは、嬉しいな」

歌う様に自然に言葉は零れたけれど、内心思った以上に驚いていた。
いつも素直じゃない彼が、こんなにもあっさりと僕に会うためにと言ってくれるなんて、雨でも降ってもおかしくない。
それとも、槍でも降ってくるのだろうか。
真っ直ぐに赤い目を見返したら、ふいと視線を逸らされてしまった。
けれど、彼の長めの黒髪から覗く耳が赤くなっているのが見えて、決して嫌ではない事はわかる。
腕を伸ばして、一歩踏み出す。
そうすれば簡単に指先が彼の頬へとぶつかって、柔らかく赤みを帯びた頬に触れられて、なぞるように動かせば逸らされた視線が僕の元へと戻ってくる。
赤い目と赤い頬と揺れる瞳は、灰色の群像物とは大違い。
しかし、彼の目に映る感情に見知った色を見つけてそれだけがいつもの彼と違う。
怯えや焦り、強い焦燥感。
それは追い詰められた兎を彷彿とした。

「僕に会うという事で、君の不安は解消されるかい?」

頬に係る黒髪を指先で緩やかに弄び、頬を撫でる。
問いかけた質問のせいかわずかに身体を震わせたのがよくわかった。
わずかに思考を巡らせて、迷ったそぶりを見せた安藤君だけど、掠れる声で口を開いた。

「…ひとつ、聞きたい事があるんです」
「何でも聞いて、君の不安を取り除けるなら」
「…犬養さんにとっての神様って何ですか?」

彼の言葉の意味を、その真意を図るべく意識を思考の海へと浸す。
僕と彼との間にはいつでも神様という話題が付きものだ。
それは僕が神様のレシピという言葉を言った時から、それとも僕と彼が出会った瞬間から。
どちらともわからないけれど、確実に僕と彼を繋ぐのはそういう見えない何かである事は否めない。
視線を安藤君から灰色の群像へ向けて、再度赤を見た。
揺れる赤い瞳は、涙を湛えている様にキラキラしているのに、内側はどろりと濃い怯えが渦巻いている。
その不安を僕が消してあげたいから、僕の思う精一杯のやり方で君に返そう。

「僕を選び、僕を導く、全てを知る存在。これから起こる全てを知る存在であり、はっきりと明言できないもの。…だから、僕にとっての神様は言葉では表せないもの何か、かな」
「つまり…思想で捉えるものではない…?」
「そうだね、僕の神様は思想じゃない」

高校生だと言うのに、彼は頭の回転が速くてとても感心する。
彼の回転の速さと思慮深さは、考えると言う行動力は見事。
けれど、僕の言葉では完全に彼の心に黒々と立ちこめている雨雲を吹き消す事は出来なかったようで、安藤君はまだ迷ったようなまだ迷ったような表情をしている。
僕は彼の言葉を待つ間、じっと彼を見つめていた。
風は未だに止まず、僕の髪をなびかせている。
安藤君の黒髪も乱雑に描き回す風は、嵐の直前のような雰囲気がする。

「あなたを……神様だと思っている人の思考を、どう思いますか?」

彼はきっと、もっと別の言葉があったのだろうけど、それを飲み込んでしまったのだろう。
喉の奥から別の音がまるで副音声のように聞こえるような気がした。
しかしながら、僕の耳は言葉にならない言葉を聞きとれるほど性能がいいわけじゃないから、彼が何と言いたかったのかを聞く事は出来ない。
思惑を予想する事は出来ても、百パーセントの自信なんてものは存在しない。
眉根を寄せて、苦しそうな表情で僕の言葉を待つ彼を見て、僕が彼を苦しめているのだろうという事は確実にわかった。
ならば、僕に出来る返答はただ一つ。

「安藤君かな…」
「…はい?」
「そういう人の思考はよくわかる。なぜなら、僕にとっての神様は君だからだ」
「意味がよくわかりません…冗談を聞きたいわけじゃ…」
「冗談ではないよ。僕は君を愛している、君も僕を愛している。恋人である君は、僕の全てを決める権利を持っている」
「俺が…あなたの全てを?」
「そう。だから、君が必要だと思えば生きるし、必要ないと思ったら死ぬ。君が僕の全てだからだ」

たたみかけるように彼に訴える。
人は矢継ぎ早に話を出された方が強く訴えられていると感じるのは、今までの経験上。
そして大事な事はゆっくりと目を見て言うのが、信じてもらうためには必要な行動。
僕は、彼に向って手を出しだす。
恭しく、ダンスを乞うように。

「君の好きにしてくれ、僕はそれに従うだけだ」

安藤君は、今日最初に会ったときと同じように、目を丸くさせている。
そんなに目を丸くさせていると、ぽろっと落ちてしまいそうだ。
まっすぐに見つめていた安藤君の目は、一度地面へと視線を落とされた。
否定されたのではない、考えているのだ、思案しているだ。
僕の恋人は思慮深く、思考の海へと潜ってしまうと簡単には戻ってこない。
それこそ息をするのも忘れるほど。
安藤君を黙ったまま見つめていると、差し出したままだった手を掴まれた。

「少しだけ…少しだけで良いので、このまま…手を繋いでいてください」
「…わかった。僕の神様がそれを望むなら」

少しなんて言わなくていいのにと思う。
僕は、それこそ永遠に手を繋いでいたいのだから。
一瞬だけ手を離して、華奢な細い手を握りなおした。
安藤君の手は暖かく、そこに居る事を証明してくれていた。
ここにいるんだ僕の神様。







(僕は知っているんだ。神様は、どこかの誰かじゃなくて君だということを)









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