本棚2

□神様のめしあがりもの
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喉が渇いてひりひりと痛む。
唾液を呑み込んでもまるでその渇きは潤す事はできなくて、余計に焦燥を煽るしかなかった。
ままならない呼吸で息も絶え絶えに階段を下る。
その間にも心臓を巡る血液はざわめいては、呼吸も心拍もむやみやたらに早めていく。
どうか、夢であって欲しいと、強く願って、願って、願った。
神様を見限ったはずの僕が、ただひたすらに誰にともなく祈ったのだ。
しかし神様がいるならばその人はいかに残酷な物語を作る気狂いなのだろうね。
覚束ない足を叱咤して、ドアを蹴り破るように開ける。
風が吹き込んでくるのも構わずに姿を探せば、そこには投げ出される白い肢体が見える。
叫び出したいのを懸命にこらえて駆け寄り、顔を見て愕然とした。
敏夫の白く陽に焼けない肌が土に無残にも汚れて血に塗れて、白濁した目に生来の光は存在しなかった。
抱き上げた身体はぐにゃりと力をなくして、首は不自然に折れ曲がった。
目の前に横たわる事実を受け入れるには、あまりにも酷い現実がそこにはあった。
彼だけは、死ぬなどという現象とは関係のない存在であると、僕は半ば信じていたのだ。






ひゅぅ、ひゅぅ、喉を通る空気が変な音を立てる。
並行であったはずの世界がぐにゃりと歪んで、目に映る風景をまともに見ることが出来ない。
それとも世界はこんなに平衡感覚を失った真っ直ぐに歩くことすら困難なものであったのだろうか。
僕が気がつかなかっただけで。

「としお…」

堅く目を瞑る敏夫は、笑っている様な気がするほどに穏やかなのに、身体は所々複雑に折れ曲がって滑稽に見えた。
どうして、どうして。
僕はただ敏夫を幸せに、ただただ、幸せにしたかっただけなのに。
僕といれば敏夫は永遠に幸福でいられるはずだったのに、どうして。
誰に問いかけても出るはずがない答えなのは、自分が一番よくわかっていた。
誰かのせいに出来ればよかったのに、それすらもできない。
何度目かのどうしてを繰り返した時に、傍らのもう1人が僅かに動くのを感じた。
そうだ、辰巳君は簡単には死ねない身体をしていたんだ。
あの高さから落ちても死なないなんて、本当にどういう身体の構造をしていればそうなるのだろうか。
いや、強度よりも彼の場合は回復力の早さなのだろう。
今だって、打ちつけてどろどろのはずの頭が徐々に塞がっていく。
生きているのだ、彼は。
それなのに、敏夫は死んでしまった。
嗚呼。
彼が。
死んでしまえばよかったのに。
瞬間、異常なまでに視界が鮮明になる。
湧きあがる冷え冷えとした感情は、取りとめのない事ばかりを考える頭を冷静にさせた。
どうして思いつかなかったのだろうか。
そうだ、死ぬのは彼であるべきなんだ。

「待っててね、敏夫。すぐに、迎えに行くから」

二三口ずさむ様に言葉を歌えばして、この世ならざる者が姿を現す。
黒い闇が固まって、輪郭を作る。
影が実体になる。
雷を後光に現れたのは、顎に髭を生やした男のような姿をした悪魔。
証拠に彼の頭には山羊の角が生えていて、羽は黒く、とても天使と見間違う事は出来ないくらい。
久しぶりに見る姿は相変わらず変わっていなくて、改めて自分がこの世の者と契約していない事を思い出す。

「定文さん」
「なんだ静信か、懐かしいな。お前と契約を結んだ以来じゃないか」

男の姿をした悪魔を呼ぶ。
定文というのは本当の彼の名前ではないのだけど、彼が最初にそう名乗ったのでそう呼んでいる。
本当の名前は知らない。
悪魔は名前を知られると困るからだ。
名前を知られれば、途端に悪魔は使役される側になる。
けれど、今日はその名前が目的ではない。

「うん、とりあえず世間話は後にして欲しいんだ。そこの男をあげるから、敏夫を生き返らせてくれ」

簡潔に用事を伝えれば、話を切られてしまって些か不満そうな彼は、じろじろと敏夫と辰巳君を見比べて考え込む様な仕草をする。
彼にかかれば、死んでしまった人間を生き返らせるのは造作もない事だ。
問題は、それに伴う代償の大きさだ。
二枚舌の悪魔との契約の天秤を平行に保てるか、それとも大きく傾かせるかはその時の気分と対応次第で、考え込むような時は相手にとって不利益な事を考えている時。
つまり、僕にとってのデメリットを見いだそうとしている時だ。
不老不死である契約を結んだ時、あの時は僕に不利な内容はなく、あちらにとって不要な低級を処理する事で僕の存在はなりたっていた。
けれど、敏夫を生かしてくれるのならば、どんな不利益でも理不尽でも、構わない。

「美味しくなさそうだなぁ…」
「そうでもないと思うよ。何せ、ヴァンピールと狼に感染しているから」
「ほう、だからまだ息があるのか」

ようやく本題に入る気になった定文さんが、座りこむ僕に視線を合わせるようにして屈む。
金色の目が、それ単体で発光している様に見えて、別の生き物のように思えた。

「静信、そいつがどうしても大事か?」
「大事だ。敏夫を生き返らせてくれるなら僕は何でも差し出そう」
「おいおい…悪魔相手に何でもなんて言うもんじゃないぞ?」
「本当だよ、敏夫の為なら僕はなんでもできる」

淀みなく、迷いもなかった。
どんどん重く、冷たくなっていく敏夫の身体を抱きしめる。
遠くへ行かないようにと強く強く抱きしめて、敏夫の大事な魂が失われないようにと。

「お前の永遠を貰うが、それでもいいのか?」
「構わないよ。敏夫がこのまま死んでしまうなら、僕はむしろそれを望むから」
「…分かった。三度の問いかけ成立だしな」

溜息を吐きながらも定文さんは少しだけ楽しそうに笑っている。
彼の指先が敏夫に触れた瞬間、不自然だった首や腕が逆再生でもかけたように戻り、動かなくなった心配が動いて呼吸が再開する。

「敏夫…っ」

顔を寄せて抱きしめれば、きちんと心臓の動く音がして、穏やかな寝息が聞こえてくる。
敏夫が生きている。
ただそれだけで、僕は生きていける。
未だに降りしきる雨から敏夫を逃がそうと身体を抱きかかえて塔へと戻る。

「おい静信」

声にわずかに振り返る。
用事は済んだ。
彼に用事ははないが、そういえば世間話は後にと言ったな。

「ありがとう定文さん。敏夫の身体が冷えてしまうから、話は今度しよう」
「いや、それはいい。一つだけ言っとくな。そいつ、お前が死んだら死ぬからな」
「そうだね…敏夫にはもう、僕しかいないからね」
「まぁ、そういう事だから。達者でな」

そう言って、現れた時と同様に闇に溶けるように消えて行った彼を横目で見送って、塔へと歩み始める。
腕の中で眠る敏夫を見ながら、もう二度と敏夫を泣かせないと決めた。

「早く、目を覚ましてくれ…」



◆神様の召しあがる物


神様が食べる、モノ。



続く








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