本棚2

□とおれない
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通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細通じゃ

天神様の 細道じゃ

ちょっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ




しゃーんしゃーん。
金属が触れ合う細かな金属音が降る。
耳から入ると言うよりも、それは頭に直接降り注ぐような、響く様な。
忙しなくけれども規則的に、しゃーんしゃーんと金属が触れ合う音は止む様子は無い。
そのうちに徐々に子供の声が聞こえる。
遠くに聞こえるそれが徐々に近づいて、そうして。
ようやく目を覚ます。

ぼんやりと目を開き、聞こえていた子供の笑い声は外からのものなのがわかった。
声は夢じゃなかったけれど、鈴のような音は夢だった。
音だけはしっかりと記憶に残っているが、夢の割には映像がまるで記憶になかった。
板張りの床の水平線を確認して、緩慢に身体をおこすと身体中に気だるいような気配がある。
肩をさすれば僅かに黒い靄が出て、こびりついた汚れを落とすようにはらう。
すると、靄は冷え切った空気に馴染む様に溶けて消えていく。
寝ている間に集めてしまった邪なそれの正体は知らない。
けれど小さいころからそれは日常的に風景に溶け込んでいた。

「先生、起きましたか?」
「あぁ…いまおきた」

襖を隔ててかけられるそれに、声をはって返す。
僅かに喉が縮こまる様な気がして、上手く声が出ない。
数度咳払いをしているうちに、するすると襖があいて男が姿を見せる。

「食事を持ってきますね」
「十和田君。いいよ、行くから」

襦袢にそのまま一枚袖を通し、簡単に止め、その上から袢纏をはおれば暖かい。
廊下は寒いけれど、部屋に入ってしまえば人の多い部屋は暖かい事を知っている。
だからこそ、必要最低限はおって行こうとしたら入り口で座ったままの十和田君を見れば困ったように笑う。

「いやでも、先生は尾崎堂医学館の医師なんですよ?弟子と一緒に食事は…」
「それは親父の代の話だ。そもそも、親父が死ぬまでは一緒に飯を食べていたじゃないか」
「それはそうなんですが…」

視線をうろつかせて十和田君が助けを求めるように後ろを見た。
その視線の先、襖の後ろから今度は武藤さんが顔を出す。

「先生、あんまり十和田君を虐めてやらんでくださいよ」
「盗み聞きとは卑怯な」
「最初から居たんです。しかもそんな寒そうな格好で廊下に出ようとしないでください」

平然と部屋に入ってきて箪笥を開けて足袋を見つけると、それを差し出してくる。
確かに襖の外、廊下から流れてくる空気は冷たく、板張りの廊下は冬は氷のように冷える。
それを考えると、素足のままで出るのは気が引けた。

「わかったよ。…お袋よりずっと武藤さんの方が世話やきだ」
「先生と大先生ではやり方が違うのはわかりますけど、今は寒いんですから。人並みに防寒はしてください」
「そりゃ、もっともでした」

足袋に足を通し終えてようやく廊下へと出る。
その後ろで襖を閉めた十和田君と武藤さんがつく。
まるで控えの従者のような二人にまた文句でも言おうとしたが、きっとまた武藤さんに自覚を持って下さい、なんて言われてしまうのだからやめた。
確かに、先代の意思を継いだといえば聞こえはいいが、結局おれは他の事では何もできないというのがわかっているからだ。
医者以外で食っていこうにも、貧相な身を売る以外に芸もない。
都よりだいぶ外れた、三方を山で囲まれた不便な外場という土地。
そこには医者が必要だった。
そして、俺はそこの小さな集落に生きる人間を見殺しにできるほど神経が太くもなかった。
結局家も出ずに親父の元で医術に追従している時点で、継がないという選択肢はとうの昔になくなっていたのだけど。

「そうえば、最近増えてきた妙な患者ですが…増えてますね」

少し声をひそめて言う武藤さんの声に降り返り、無言で次を促す。
恐らくは「鬼戻り」の事だろうと見当つける。
鬼戻り、または高齢な老人連中から言わせれば起き上がり。
土地によって存在する、伝承のようなものが、この外場村にも存在する。
土葬したはずの遺体が、ひょっこりいなくなっているなんて話はどこにもであるが、最近は蘭学のせいで先祖の骨には万病を治す効果があるなんて根も葉もないうわさが広がっている。
実際は墓から病を拾って死んでしまうものが後を絶たないのだから、どうしようもない。
しかし、外場の鬼戻りは違う。
外場の鬼戻りは山に入ったものが行方不明になって、しばらくたってひょっこり戻ってくるとぽっくり死んでしまうという現象のことをさす。
山から戻ってきて死ぬまでの間はずっと眠り続けて、何も食べようとしない。
無理やりにでも湯を飲ませようとした家族が、行方不明になる前にはなかった八重歯があるのをみている。
それが山から帰ってきた者に共通して存在しているので、山に行って行方知れずとなったのに戻ってきた者は、鬼になって戻ってきたのだと。
あちらで死んで起き上がって戻ってきたのだと言われている。
そうして、鬼になりきれなかった者は死んでいくのだと伝えられている。
ただの昔話で、俺自身はただの狂った犬にでも噛まれた狂犬の病だと思っていたのだが、最近その鬼戻りの症状を訴えるものが多い。
年寄り連中が起き上がりだ、鬼戻りだと騒ぐので、冬の忙しさに加えてさらに医学館はてんてこ舞いだった。

「起き上がりだ、鬼戻りだ、なんて言ってないでうちまで連れてくりゃいいものを…」
「それは無理もないですよ。鬼戻りは先生も小さいころから言われているでしょう?それに」
「あぁ、俺は鬼戻りだからな」
「えっ、どういうことですか?!」

十和田君が身を乗り出してこちらを声と同様に驚きの顔で見る。
てっきり村の連中は全員知っているものだと思ったが、それは自意識過剰だったのかもしれない。
そもそも、鬼戻りにあったのは小さな幼子の頃の話だ。
まだ若い十和田君が知らないのも無理は無い。

「鬼戻りや起き上がりの話は小さいころからずっと聞かされる。山には入るな、山には近付くなって」
「そりゃ、小さな子供にはそういう話がなくたって一人じゃ危ないですし」
「けど俺の性格だからな、もちろん山に入った」
「あぁ…なんとなく察しがつきました」

十和田君の言葉に思わずつられて自分も苦笑いをする。
振り向けば案の定、武藤さんは懐かしい昔話を聞く様な顔をしているし、十和田君は面白いと言わんばかりに笑っている。
まったくいい気なものだ。
そういう自分も、とうに昔の話で記憶はほとんどない。
気がついたら村の外れでぼんやりと立っている所を見つけられて、山の中で何があったのか、何もなかったのか。
それすらもわからない。
その後に特別な変調はないように思えたのだが、元服をした頃。
ようやく自分が見えている世界と他人の見えている世界が違うのだと気付いた。
この話は、誰にも話をしたことはない。
言った所で誰も信じてもらえないだろうと思うし、言った所で誰にも解決できないだろうと思っているからだ。

俺には見えるものがある。
黒い靄のように立ち込める、腐臭を帯びた物が見えるのだ。
それは、墓地や墓場や合戦場に立ちこめて、黒々とそこに存在する。
死臭のようなものかと思ったのだが、それが人に纏わりつく様に漂うのが見えるのだ。
父に身体の具合を聞きに来た者の中に、ごく稀にいるのだ。
黒々とした煙を背負った者が。
それが何かは未だにわからない。
わかっているのは、それを背負った奴を助ける術はないのだということ、それだけだ。
父が見てもたいした病のようにも見えず、けれどもしばらくするとぽっくりと亡くなっているのだ。
煎じ薬を飲ませても、食事を与えてもよくならない。
けれど、騒ぎにならないのは彼らに特別な症状が出ないからだ。
特別に身体が熱くなるや、特別に寒気がある、吐き気、眩暈、その他諸々。
些細な訴えはあれども、そのどれもが少し横になって養生すれば治る程度。
なのに、治らない。
それがあの黒々とした物が原因であることはわかっていた。
だから一生懸命に父に訴えた。
あの頃はまだ父親を慕う気持ちが少なからずあったので、言葉拙くもなんとか伝えようとしたが、父には取り合ってもらえなかった。

そうしてようやく、自分にしか見えていないのだと気付いて、愕然とした。
三十を超えた今でもなお、見えるそれの正体は未だにわからない。
けれど、最近うちに来る者の中にそれらを背負った者が多くなっている。
どうにか原因を掴まないとまずい事になる予感だけはあった。
最近は、外の方からの薬を導入してなんとか効果のあるものを作ろうとするが上手くいかない。
いっその事、抹香や清めの水でも使ってみようかと考えた事があったがやめた。
仏に縋って救われるのは遺族だけだ。

「例の患者、どうだ」
「難しいと思います。相変わらず無気力で、食事も取らなくなってます。起きるのも日に一刻あればいいほうです」
「そうか…」



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