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□砂の海
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「海に行きたいです」

横断歩道を渡る時のようにぴんと挙手をした夏野君が、海に行きたいと言いました。




:砂の海




電車を乗り継いで、3時間。
さらさらの砂浜に、太陽の光を反射してキラキラ光る水面は砕いたガラスを散らした様にも見えて、水平線がゆらゆら揺れて蜃気楼が見えそうだ。
外場に居た頃ではさすがにこうも上手くはいかない。
ただでさえ山に囲まれて遠いのに加えて、交通の便が悪い。
移動距離の方が滞在時間よりも長くなってしまう。
もっと内陸と比べれば近いはずなのに、それのせいでなかなかうまく旅行の計画は進まない。
けれど、今俺と夏野君が住んでいるのは外場とは縁のない街。
あまり有給を取らないのせいか休暇申請はすんなり通った。
前日に必要であろうと思われるものを買い込んで、早朝に出発をして、途中で少し寝て、海まで来た。
すでに海開きはされていて、ちらほらと砂浜には人影が見えるが泳いでいる人はほとんどいない。
まだ学生が夏休みに入っていないのも理由の一つだろう。
平日にしたのは正解だった。

「暑いなぁ」
「暑い。先生、とりあえず日陰行こうよ」

夏野君に手を引かれて、アスファルトの照り返しに目を細める。
光と熱のせいか白っぽく見えてくる風景と夏野君に、彼の見た目は変わらなくても確実に中身は成長しているのだと今更ながらに感心した。
一番多感な年齢に、俺の様な奴が隣で申し訳ないなと思うのだけど、それを言うときっと彼は先生がいいのだと言うんだろう。
自惚れていると思うが、それがまた事実なのだから仕方ない。
俺じゃなくてもいいんだと何度も暗に言うと、先生がいいのだと、先生じゃなきゃだめなのだと言うから。
海岸へ続く階段にも砂が積もっていて、サンダルだと滑りそうだった。
未だに手を引かれているのが気にならないでもなかったが、人がいないからいい事にした。
きっと、親子にしか見えないのだから気にする事はない。
それを言うと先生は俺と親子になりたいんだと怒るので言わないけれど。
小さな木陰に身を寄せると、ようやく日差しが和らいで暑さも控えめになった気がする。

「人、いないね」
「だな」

会話が少ないのは電車で眠気が抜けきらないのか、人が少なすぎるせいなのか。
静かな所で声を潜めるように。
忙しなく波の音はするのだけど、それは静かで大きくないからうるさくない。
遠くで話し声はやっぱり同じように妙に声を潜める様で何を喋っているかは判断できなかった。
もしかしたら、人狼の夏野君には聞こえているかもしれないけれど、わざわざ聞いてもらうような事でもないので止めた。
少ない荷物を置いて、背伸びをする。
小さくぱきぱきと骨が鳴るのが内側で響く。
海に来たわりに少ない荷物の理由は、俺も夏野君も水着を持ってきていないからだ。

「しかし、本当に水着、よかったのかい?」
「うん」
「せっかくの海なのに」
「いいよ、海ってべたべたするし、入るのは次で」
「今日は泳ぎたいんじゃないか」
「まぁね」

年相応に見えない大人びた顔で、相変わらずの返事をする。
あの災禍から5年が経っていた。
元々、子供らしからぬ言動が多い子ではあったけれど、あれからそういう面が増えたように感じた。
それを成長というにはきっかけがあまりにも残酷すぎる。
帽子をかぶりなおした夏野君は、ぽつりとひとり言のように言葉を零した。

「少しぐらいリフレッシュしたほうがさ、いいんじゃないかと思って」

俺からは夏野君の表情は、帽子に隠れて見えなかったのだけど、なんとなく想像が出来た。
最近、確かに考えることが多くなって、上の空の事が増えた。
それはやはり、あの夏の日を思い出すからだ。
何年経っても、きっと毎年思い出すのだ。

「…うん」
「足元ぐらいは当たりにいかない?せっかくの、海なんだし」
「あぁ…そうだな」

気を使ってくれているのだ。
彼の方が境遇としてはずっと不憫で、残酷な生涯を送らなければいけないのに。
しかも一回り以上も年下の彼に気づかわれてしまっては、先生などと呼んでもらうのが申し訳ない気持ちになる。
ごめん、と口には出さずに呟く。
彼のせっかくの気づかいを無駄にするから決してごめんとは言わないけれど。
砂浜は乾いてさらさらとして、その分熱さがサンダルの裏から伝わって、ゴムが溶けてしまいそうな気がした。
白い砂浜とまではいかないものの、体重分沈み込む地面は心地よい。
波打ち際まで来ると波風が涼しくて、風がまた気持ちいい。
水平線は限りがなくて、遠く沖の海は底が見えない。
雄大な自然の前に圧倒されるのはやはり自分がそれだけ矮小な存在であることを理解しているからか、それとも本能なのか。
精神医療の関係は専門ではないからわからないけれど、わからなくてもいいと思う。
むしろ世の中にはわからない事の方が、わかる事の何倍も多いのだ。

「結構、冷たいね」

海の中へ躊躇わずに歩を進めていく夏野君に、彼の物応じない姿勢が羨ましく思える。
自分も昔はそうだったのに、いつからこんなに保守的になってしまったのか。
歳のせいだと言うのは簡単だけど、もっと自分に大きな変化があったせいなのかもしれない。
それが長年付き合った友人との決別なら、もっと早くに気が付くべきだった。
俺と静信の道は遠く隔てられていたということに。

「あぁ、冷たいな」

波のギリギリまで歩を進める。
わずかに指先にかかるしぶきが冷たくて、まだ海に入るには水が冷たかったなと思い、今日はまだ入らなくて正解だったなと思った。
さらにざぶざぶと先へ進む夏野君を見て、彼はどこまでいくのだろうと考える。
そんなに遠くへ行ったら危ないのに。

「先生」
「んー?」
「せんせい」
「なんだい」

風が急に強く吹いたので、声を張る。
彼が何か言った様に口を動かすけれど、風に紛れて声しか聞こえなかった。
ごうごう、ちゃぷちゃぷ。
波と風の音が混じり合って、自分の心臓の音すら聞こえない気がした。
手招きしながらこちらへ来る彼に、仕方なしに歩を進めて波へ足を差し入れる。
ひんやりと冷たい海は、まだ真夏の海ではなく初夏らしい冷たさ。

「なんだい、夏野君」

問いかけた途端、彼の腕に引かれる。
バランスを崩したのに加えて波に足を取られる。
咄嗟に目を閉じそうになるが、寸前で夏野君に抱きかかえられるようにされ、そのまま口を押し付けられる。
驚くよりも早く、歯をぶつけなかった事に気づき、腕を引いたのもわざとだと悟る。
体勢を立て直して、距離を取れば、なんてことない顔の夏野君にわざとらしく溜息を吐く。

「なつのくん…人が全くいないわけじゃないんだから」
「大丈夫、事故にしか見えないよ」
「まったく…君には敵わない」
「おれも…先生には負ける。ねぇ、来年も来よう。で、砂時計を作ろう」
「来るのは構わないが、なんでまた砂時計なんだい」

手をまた自然に繋がれて、海を後にする。
また夏野君に手を引かれているけれど、特に嫌ではないのでそのままでいいと思った。
どうせ、人は少ないのだから。

「先生との時間を閉じ込めるんだ。時間を忘れないように」

振り返りながら笑う彼に、息をのむ。
急に大人びた理由を見つけた気がして、今更ながら彼と俺とでは流れる時間が違う事に思い至る。
俺にとって時間は有限であっても、彼にとっては無限に等しいのだ。

「そうか」

君は、永遠を生きることに決めたのか。














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