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□こんにちは、埃塗れの未来へ
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敏夫からは暖かな甘い、お菓子の様な甘い匂いがするような気がした。
それは確かに感じる嗅覚の話ではなく、もっとイメージや感覚に近い。
実際の敏夫の首筋に顔を埋めた時は、一番強く真っ先に感じるのは煙草の匂いで、その次に少し薄まった消毒液の病院の匂い、そうして一緒に敏夫の匂いがする。
もっと細かく分類できるのだろうけれど、生憎自分の鼻は人並みなのでそれぐらいしかわからない。
けれど、それらの匂いがわかれば敏夫の匂いであると認識するには十分だと思う。
敏夫を構成する成分のほとんどがそこにはあるように思えた。
きっとそういう事をいうと敏夫は、勝手に決め付けるなと怒るのかもしれない。
かといって、甘い匂いがするなんて言えばきっと訝しげにぼくの事を心配するのだから、敏夫は医者だ。

「なーに考えているんだ、お前」

とん、と額を小突かれて目が覚める。
思考の海に沈んでしまっていたせいか、目の前にまで敏夫がいるのに全く気がつかなかった。
咄嗟の事に口から言葉は出ず、ぽかんとするように口を開いたまま動きが固まり、ゆっくりと手の中にある湯呑みの中身がとっくに冷めていることがわかって口を閉じる。
そうして一つ呼吸をしてからやっと動き出す。

「ごめん」
「俺がいるのに居眠りなんて喧嘩売ってると思っていいんだろうな?」
「悪かったよ。ちょっと、考え事が過ぎた…反省している」
「別に、俺だって怒ってるわけじゃ」

ふつんと途切れた言葉に僅かな違和感。
言葉がそのまま続くと思ったのに、後半はまるでコーヒーと飲み込んでしまったよう。
聞き返さなくてもなんとなく察しがつくような気がして、湯呑みに口をつけて敏夫にはわからないように口元を緩める。
けれど、上手く隠し通せなかったのかこちらを見る敏夫の眉間に皺がよる。
耐えきれずに笑いを零せばそれはさらに深くなる。

「静信」

わずかに怒気を含んだ敏夫の声とは正反対に、ぼくの方は笑いが込み上げてしまって仕方ない。
そんなに強くカップを握っては割れてしまうのではないかと思うほど、強く握られた手元が見て取れる。
割れるようなことはなくても、そのカップをこっちに投げつけてくるぐらいのは事は、もしかしたらあるかもしれない。

「ふふっ…ごめん。だって、寂しかったのかなと思ったら、嬉しくて」
「馬鹿野郎、寂しくなんかあるものか…っ」

これ以上は怒鳴って追い出されかねないので口を閉ざす。
それでもふつふつとわき上がる笑みが押さえられなくて、なんとか敏夫に再び怒られる前におさめようと湯呑みに口を近づける。
しかし、その動きは伸びてきた敏夫の手によって制止される。
書類の乱雑に置かれた低いテーブルに方足を乗り上げるのが見えて、行儀が悪いと言ってやりたかったけれど、そのまま敏夫の行動を見守る。
下へ引き下げるようにされたので、たいして中身の多くない湯呑みをそれに従って口元から離して、代わりに少し上にある敏夫に顔を向ければ、さらに顔を寄せられるので大人しくそれを待つ。
触れるギリギリまで近づいて、ぴくりと肩を震わせたのが横目に見えて、動きが止まる。

「おまえ…目くらい閉じろよ…」
「敏夫の顔が見ていたくて、ついね」
「だからお前はムードがないって言われるんだ」
「ぼくたちにムードなんて必要なのかい?」
「少なくとも、おれはそういう気分だったんだよ」

口に触れられると思ったのに、小さく頬に寄せられるだけに口付けられる。
機嫌を損ねてしまったのはいけなかった。
これなら素直に目を閉じて、敏夫の好きなようにさせてあげればよかった。
そうすれば、珍しく敏夫からキスがしてもらえたのに惜しい事をした。
そのまま拗ねたように敏夫が身を引いてしまう。
それだけでは寂しい。

「敏夫」
「んだよ…んっ」

片手で敏夫の首筋に回して、下へと引き寄せる。
そうすれば、再び距離は近づいて、バランスを崩した身体は腕の中で。
ごとんと敏夫が机の上に置いてあったカップを蹴飛ばした音がして、わずかにそれを見れば中身ははいっていなかったようで一安心。
そのまま首を伸ばして顔を寄せれば、敏夫がわずかに顔をしかめるような表情をして目を瞑る。
それを見届けてから口付ければ、肩に置かれた手がわかりやすく震える。
変な体勢だから余計なんだろうな、と思っても止める気はないのだけど、縋りつく様な手は悪い気分がしなかった。
敏夫はいつも一人で立ち上がってしまうから。
人に頼るのが苦手なのではない、人に頼るのが嫌なんだろう。
だから、ぼくはそれが心細くなるような、寂しいような気がしてしまうのだけど。
それは決して、敏夫には言わないのだけど。
触れるだけで留める。
すでに診察時間は終わって、スタッフもいないとはいえ、ここはまだ病院内。
いつ誰がくるかわからないのだから、このままさらに深く求めてしまうわけにはいかない。

「せいしん…」
「敏夫は、するよりされる方に慣れたのかな」
「誰のせいだと思ってんだ…お前のせいだぞ」
「うん、ごめんね」

くすくすと、やっぱりこぼれてくる笑みをそのままにすれば、やっぱり敏夫が眉間にしわをよせる。
けど、耳も赤くて、頬もわずかにピンクだ。
さっきと比べれば、怒っているというよりもずっと照れている方が近い。
こうやって、甘やかして触れ合っていることが、あまりにも穏やか。
穏やかで、つい、自分がいかに敏夫とは違うのかを忘れてしまうんだ。
目元を緩やかに溶かして、けれど口からこぼれるのは思ったよりも穏やかな声。

「敏夫が好きだから」

好きだよ、でも。
きっと、僕はお前とはずっと一緒にはいられないのだろうと思うんだ。
だから、嘘をついている気はないんだけど、きっといつか僕たちには終りがくるんだろうね。
それがどんな形かはわからないけれど。




◆こんにちは、埃塗れの未来へ◆
(賢いふりをして諦めたんだ)








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