本棚4

□楡の木よりも高い場所で
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最近、大統領は体を絞り始めたようであった。
元軍人と言う体格にしては多少太めで柔らかい感触がある体ではあったが、別段肥満というわけでもなかった。
あの柔らかさも女性のそれと似ているからさわり心地はとてもよかったと思うのに、どうしてまた急にそんなことをしだしたのかは私には見当もつかなかった。
筋肉の上についた柔らかな脂肪は、後ろから持ち上げれば指に余って、いっそう柔らかさを強調する。
掴んだ腰の骨の上に感じる柔らかさも、男性を抱いているよりも女性らしく思える。
そういう事を言うとまるで自分がchubby-chaserであるようだが、まあ自分にないものを求めるのが人間の業であるから間違いではないのかもしれない。
護衛や暗殺等の任務をするために人並み以上に筋力はつけているが、元の骨格がひょろりと細長いためお世辞にも体格が良いとは言えない。
むしろ、脂肪も付きづらいために気を抜くとアバラ骨が浮いて不健康に見えることすらある。
食事も人並みに取っているが、肉がつかない体質で体脂肪率は下がる一方だ。
だからこそ、あのふくよかさが羨ましいのだと、褒めて差し上げたのに。

「あ」

鳩に餌をあげていた手が止まる。
暇なら伝書鳩の世話をしておけ、という平和そのものな指令をこなしながらつらつらと考えていた。
なぜ急に、ダイエットなどを始めたのか。

「あー……嫌だったのか……」

餌の催促をしに嘴で指を甘噛みしてきたので、パンをちぎって落とす。
小屋の中では好き勝手に真っ白な鳩が餌をつついたり、止まり木から止まり木へ移動したりしている。
その真ん中で餌をやっている姿がシュールであるのは承知の上だが、事務処理は専門ではないから他に業務がなにもない。
大統領は外交の為に出かけているし、護衛について行ってもよかったのだが人が足りていた。
ここ最近は目ぼしいスタンドの出現の情報もないし、現状維持と言うほかない。
だからこそ暇を持て余して餌やりなどをしながら考え事をしていたのだが。

「褒めたつもりだったんですけどねぇ…」

ぼんやりと言い訳をするも、本人の耳に入ることはないので意味もなかった。
予想でしかないが、どうやら私の褒め言葉が大統領本人は嫌だったようだ。
感情の機微に疎い所があるので、意図せず相手の逆鱗に触れることは稀にある。
書類の間違いや配置の違和感、そういう不利になるような行動や状況はわかるのだけど、感情原理についてはさっぱり予測ができない。
テロリストや犯罪者の行動パターンを読むことはできても、どうしてそれをするに至ったのかと言う理由はわからないのだ。

「モア、…ブラック・モア」
「ああ、マイク・Oじゃないですか。どうされました?」
「どうされましたはこちらの台詞だが。鳩の糞塗れで立ち尽くしているなんて、何か粗相でもした罰を受ける世界なのか?」
「ああ、…もしかすると、そうかもしれませんね…?」
「君の世界を理解するのは難解そうだ…ひとまず、そこから出てきたらどうだ」

手元にあるパンくずをぞんざいに放って、一先ず言うとおりに小屋を出る。
小屋の中は薄暗くて気づかなかったが、確かにレインコートは糞だらけだった。
そのまま着ているのも気持ちが悪いので脱ぐが、手につきそうで顔をしかめる。

「ご用事があったので?」
「いや、一仕事終えた休日の世界だ」
「大統領は公務終わったんですか。では、もう執務室へ戻られたんですね」

考えても答えは出なそうなので、本人にでも聞いてみようか。
しかし、これはプライベートな問題でもあるから、仕事が終わってからのほうが良いのかもしれない。
さすがに仕事中にプライベートな、しかも下世話な話を振るのはさすがに失礼か。
ようやく脱いだレインコートを引き摺って、屋上に備え付けられた水道に向かう。
その半歩後ろを会話をつづけながらマイクが付いてくる。

「いいや。ジョギングへ出かけるとおっしゃったので、お見送りした」
「…待ってください」

蛇口をひねる手が止まる。
まさかと思うが、そのまさかをしでかしてくれそうな雰囲気がこの男にはあった。
中腰で振り返り、疑問を口にする。

「まさかと思いますが、一人で行かせたんではないですよね?」
「お一人でいいとの事だった。だから、私は休暇を頂く世界に居る」
「貴方…それでよく護衛官が勤まりますね」

深く溜息を吐いてから蛇口を捻る。
一人で外出をされているとなると、それはそれで問題があった。
一国のトップがダイエットの為にジョギングに出ているだけでもニュースなのに、さらに一人でなどどんな問題が起きてもおかしくない。
とはいえ、流石にマイクも一人で行かせることはないだろう。
一人ぐらいは身辺警護に付き添わせているはずだ。

「ファニー・ヴァレンタイン大統領を心より慕っている幸福な世界にいるからな。お言葉の言う通りにしたまでだ」

不思議な事にまるで安心が出来ない言葉だった。
言葉の通りということは、一人でいいという言葉、その通りにしたのだろうか。
不安と嫌な予感だけがしっかりと胸に居座っている。

「……待ってください。まさかと思いますが、お一人なんですか?」
「ああ」
「本当に、よくそれで護衛官する気になりますね……」

黒地のレインコートの表面を勢いよく水流が落ちていく。
擦らなくても大丈夫そうだ。
それに、今日はこれから雨の予定だし軽く落としてあれば問題は。
あ、と声が出ていたかもしれない。
今日は雨の予報だ。
空気はすでに湿っぽくて、先ほどまでの晴れやかさは成りを潜めて薄暗い。
そろそろ降り始める。
憂鬱になりそうだった機嫌が少しよくなってくる。
雨は良い。
雨音も、湿った空気も、心地よい。

「何かあれば、チューブラー・ベルズが戻ってくるだろう。そういう世界になる手はずはしている」
「なんだ。さすがに丸腰にさせているわけではないんですね。場合によっては反逆罪にして差し上げようかと思いましたよ」
「モア、君は随分と心配性な世界にいるのだな?あの方の事になると、君はとても攻撃的だ」
「……そうですか?」

恍けずともいいだろう、と言われたのだけど恍けたつもりはないのだ。
言ってしまえば無意識なのだろうから。
一通り綺麗にしたレインコートを勢いよく振る。
ベストに水滴が飛ばないように腕を伸ばすが、頬に水滴が飛ぶ。
拭ってもう一度振ろうとした瞬間、続けざまに腕に、額に落ちてくる。
ぽつ、ぽつん。
自分が払ったものではない水滴がアスファルトの屋上を濡らしていく。
見上げれば、すっかり厚くなった曇天から水滴が降りてくる。
私にとっては通年雨でいいぐらいの、もっとも好ましい天気。
雨が降れば私は、存在する理由が出来る。
今日は特に誰の場所へ行く予定もないので、マイクを連れて室内へと思ったが、ふいに嫌な疑問が浮かぶ。

「マイク・O。聞きたいことがあるのですが、大統領はどちらに行ったんでしたっけ」
「ジョギングの世界へ」
「……傘は持っていなかったでしょうね?」
「バトンの代わりに持っている人がいる世界は稀だろうな」
「…………でしょうね。お迎えに行ってまいります」

深く、深くため息をついてから、レインコートを羽織る。
真っ黒のレインコートを羽織って、お決まりの姿に。
もっと明るい陽気な装いにしろとも言われたことがあるが、暗殺も頼んでくる人にだけは言われたくなかった。
真っ赤なレインコートなら返り血が紛れるかもしれないけれど、そんな目立つ格好で要人暗殺などできるわけがない。
貴方と違って替えがないんですからと言いたい所だが、大統領から言わせれば他の世界にいる私を連れてくればいいだけで、替えは存在するのだ。
せめて、この想いそのままの私でいればいいのにと、そればかりは願わずにいられない。
降り出した雨を止めて、上は濡れぬように、下は道になるように。
入れ違いにドアへ向かうマイクはすっかり濡れていた。

「モア、大統領は三キロほど走ると言っていたから遠くはないはずだ。白のジャージを召した御姿の世界だ」
「そうですか。それはなおのこと、暗殺してくれと言わんばかりの目立つ色ですね」
「君が無事に見つけられる世界であることを祈るよ」

軒下から呑気に見上げてくるマイクに、眉間に皺が寄る。
忠誠心があるのはわかっているのだがどうにも呑気な男に思えてならない。
それも、ふわふわと掴みどころのない風船のようなスタンドのイメージが強いからだろうか。
とにかく、今は大統領をお迎えに行くのが先決だろう。
愛用の傘を広げる。

「ええ、できればタオルとシャワールームを温めておいて頂けると助かりますが」
「使用人に言っておこう」
「そうしてください。では」

会釈をしてから空に足を出して歩き出す。
雨の日はいい。
傘のお蔭で上空を見る者は稀だ。
見上げたところで見られることもない。
もっとも、雨の日でなければ発動しないスタンドなのだから、そんな心配は杞憂でしかない。
三キロ圏内とは少しばかり大ざっぱだが、官邸周辺で走る場所は限られる。
時間を考えても、そろそろ戻るためにこちらに向かって走っていたころだろうから、実際はすでに一キロ圏内にはいるはずだ。
予想通り、十分ほど歩いた頃に白いジャージの姿を見つける。
黄金色の頭髪を縛り、この国の最高責任者は街路樹の下にいた。
空を見上げていた大統領は即座に私の姿を見つけて、指でこまねく。
階段を下りるように雨粒を飛んで、目の前に降りる。

「遅いぞ、ブラック・モア」
「すみませェん、鳩の餌やりをしておりまして」
「そういえば言いつけてあったな。まさか真面目にやるとは思っていなかった」
「ああ、そうですか…」

察してはいたし、やる必要はないだろうとは思っていたが、言いつけられた本人に対して重要じゃないと言われるのは複雑だ。
こちらも真面目にやっていたわけでもないが、それでも複雑だった。
とりあえず手持ちのハンカチを差し出して、傘の下へ招き入れる。

「ん、ありがとう。モア、ハンカチまで黒にしなくてもいいのだぞ?」
「汚れが目立ちませんので」
「…ちゃんと洗ってあるんだろな?」
「勿論ですよ、大統領」

顔を拭こうとした手を止めて、嫌そうな顔をしてハンカチを見つめる大統領。
鼻を近づけて匂いを嗅ぐ仕草をするが、あまり不用意にそういう事はなさらないで頂きたい。
常に暗殺の危険にさらされているアメリカ合衆国のトップなのだから。
渡された物に何が仕込まれているかわかったものではない。
言った所で、私の変わりはいるから気にするなと言い出すから言わないが。
私が愛するこの国のトップは、永劫に貴方だけなのに。

「帰りましょう、だい…?」

大統領と続けようとした口はふっくらと柔らかい唇に押さえつけられた。
こんな所を見られたらスキャンダルの格好なネタなので、傘を傾けて隠したが大丈夫だろうか。
国の為なら個人としての風評を気にしない所は、やはり代わりがいるせいなのだろうか。

「大統領は止めておくれよ、モア」
「ですが、それ以外には私には呼べる言葉がありませんが…?」
「せっかく公務でもない、プライベートだ。いつものようにファニーと呼んでくれてもいい」
「…人に聞かれては困ります」
「お前が?」
「いいえ、貴方が。私のようなものが気安く貴方を呼ぶなんて、国民に示しがつきません」

意地の悪い問いかけだと思う。
試されているようだ。
忠誠心を感情を、胸に巣食う情愛の真偽を。
何一つ偽りがないのに。

「ふっ、ふふ、いい。モア…ブラック・モア。それでいい。君はそれぐらい生真面目でいい」
「はあ…」

ご尊顔を整えた大統領からハンカチが返ってくる。
楽しげな様子に、わずかに嫌な予感。
楽しげにされている時は、無理難題や達成が難しい用事を押し付けられることが多い。
おそらくは近しい者にしか見せない一面だ。
夜を共にして最上の愛を捧げているとはいっても、あくまで私は部下でしかない。
行動原理がいまだに読めないままだ。

「さて、そんな生真面目な君に、私から一つ命令だ。戻るまで私を大統領と呼ぶことを一切禁じる。ファニーと呼ばなければ返事はしないぞ」
「…はあ…」

案の定、予想もしていなかったことに生返事をするほかない。
私の拒否権はないから、言われたとおりにするしかない。
それ以外の洗濯はこの世に存在しない。

「きちんと遂行するように。わかったか?モア」
「…畏まりました」
「ん?」
「…………わかりました」

親しげに呼んだ方が他人の空似だと思われるかもしれないと自分に言い聞かせる。
むしろ、そうであって欲しい。
人の往来がある、決して少ないとは言えない午後三時。
誰に聞かれるかわからないから傘を傾けて、耳元に顔を寄せる。

「ファニー」

これは呼ぶまで聞こえないふりをされると判断したので、名前を呼ぶ。
ヴァレンタインと呼ぶのは流石に憚られた。
しかし、呼ばれた本人はそれでも十分に満足をしたらしい。
にやにやと嬉しそうに笑って歩き出すから、それに合わせてを傘を差しだす。

「ほらモア。もっと寄らないと濡れてしまう」
「私はレインコートを着ていますから平気です」
「ん?なにか言ったか?」
「…私はレインコートを着ていますから平気ですよ…ファニー」
「そうかそうか、それならばいい。そうだモア。君のスタンドで上を歩こう。そうすれば、小声じゃなくてもいいだろう?」
「……それは、私が貴方を抱えるということで?」
「体重も体格もかなり軍人現役時代に戻ってきたぞ。もう重いなど言わせないさ、なあ?」

やっぱり気にしていたのか。
夜に体を抱える時に、確かに多少は重みを感じる。
大変ではあるがそれが嫌だとは一言だって言ったことはないのに。
そりゃあ、重いと口にしてしまった私に原因はあるのだろうが、信念を持って生きる大統領が、私の気まぐれとも思える一言で行動をする。
それに、悪い気持ちはしないのです。

「どんなに重くたって、私は貴方を抱えて空を歩きますから。ご心配なさらないでください」

傘を預けて抱え上げると、満足そうにまた笑う。
そして、ん、何か言ったかという顔をされるので、私はまたため息交じりに名前を呼んで差し上げるのです。







楡の木よりも高い場所で







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ニレ 【 花 言 葉 】 尊 厳 ・ 高 貴
尤も高貴な存在に捧ぐ。

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