本棚4

□春のヘーベ
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「……ワイン、か?」

机の上に置かれた見覚えのないボトルの中には、薄桃色の液体が入っている。
ボトルを出してきた当人は、目の前の椅子にふんぞり返る様に座って楽しげに笑うだけだ。
珍しい酒を手に入れたから今夜飲みに来い、と言ってきたからギュスターヴの私室に来ていた。
晩酌をする時はそのままなだれ込む様にようにベッドに向かう事が常だから、互いに薄い夜着を着ている。
とはいえ、畏まった服を嫌がるギュスターヴは、常に開襟シャツだからあまり変わらないように思える。
せめてタイぐらい閉めろと言っても、身内しかいないんだからいいじゃないかと言って聞きやしない。
返事をする気が無いのか、笑みを深くするだけだ。
ボトルを手に取り明かりにすかしてみる。
ラベルが張られていないボトルは、反対側がよく見えて、透き通った桃色の中に気泡が生まれて登っていく。

「なんだ?果実酒にしては…気包が多い…」
「お、さすがケルヴィンだな」
「……いい加減、これがなんだか教えてくれませんか。ギュスターヴ公」
「怒るなよ。何でも知ってるお前がわからないって顔するのが可愛くって、焦らしただけなんだから」

まあ怒ってる顔だって可愛いけどさ、と言うとギュスターヴはグラスを二つ引き寄せて差し出す。
可愛いなんて言葉は、女や子供にやってやる言葉だ。
二十をとうの昔に超え、三十になろうとする男に間違っても言う言葉ではない。
しかし、そうやって反論し続けても改める気はギュスターヴにはまるでない。
その可愛いという言葉に、さして大きな意味は無いのだと気付けば腹もたたなくなった。
場を弁える気だけはあるのか、二人だけの時にしか言わないから好きにさせる。
ボトルをギュスターヴに戻して、代わりにグラスを受け取る。

「飲んでみればすぐにわかるさ」

足の長い細身のグラスに、桃色の液体が注がれる。
こんな所をネーベルスタンにでも見られたら随分驚かれるだろうな。
仕えるべき主君に注ぐならまだしも、主君に注がせるなんて上下関係に厳しい将軍職からは考え吐かないだろう。
自分も主君たるギュスターヴに敬意を払って注ごうかと一瞬だけ考えたが、その気づかわれる本人が楽しげにコルクを抜いて、注ぎ口を差し出してくるからすぐに忘れてしまった。
夜の密やかな晩酌のこの時は、ギュスターヴは主君でなく、また自分も部下ではない。
もっと別の名前で呼ばれる、何かであった。

「注ぐか?」
「いいよ、自分でやる。…ん、じゃあ。乾杯」
「乾杯」

薄いグラスを軽く触れあわせて、口元へ寄せる。
匂いを嗅ぐと甘さに混じった酒精を感じて、果実酒である事はわかった。
ワインと同じであるように見えるが、注ぐ時に随分と気包が生まれて、近づけるとしゅわしゅわと微かな音を感じた。

「……炭酸、か」
「ご明察。ここら辺は赤ワインが主流だけど、白の中にはこうやってぱちぱちする奴があるんだ」
「スパークリングワインか」
「そ、説明してもらったんだけど、よくわかんなかったんだよなぁ…作り方で自然になるんだってさ」
「ふぅん……ん?お前、今日は日中屋敷にずっと居たはずじゃなかったか」
「えっ」

ソーダ水とは違う雰囲気に、少しだけ心がざわつく。
新しい物にそわそわする子供の様な感覚。
しかし、その気持ちも矛盾に気づいて簡単に消え去っていく。
口を付けずに顔を上げれば、視線を逸らされた。
それはほとんど返事の様なものだった。

「お前、またフリンに嘘をつかせたな…!」
「日中いたのはほんとだって!一時間ぐらい外に居たのはカウントに入らないだろ!」
「一時間も……まあ、いい。今日の書類は出来てたんだしな…けど、仕事が終わってるなら隠す必要はないだろう。言えばいいのに…別に、私だって年中お前を拘束しておきたいわけじゃない」

薄桃色のワインを少しだけ口に含む。
舌の上に微かな電撃の様な刺激が走って、香りを強く感じる。
しゅわしゅわ、爽やかな感触。
それと同時にほんの少しの寂しさ。
ギュスターヴとフリンの仲が良いのは何も今に始まった事ではない。
それに対して、まるで幼子の様に拗ねて見せるのは間違いだ。
ふぅ、と微かな溜息が聴こえる。
グラスの中をたゆたう薄桃色に視線を囚われているから、ギュスターヴがどんな顔で溜息を吐いたのかわからない。
囚われているなんて、体の良い言い訳で、実際気まずさが勝って顔が上げられないだけだ。

「お前をさ、驚かせたくって」
「…は…?」
「きっと知らないだろうって思ったら、びっくりさせたくなったんだ。だから取りに行くのを秘密にしたかったんだ」

反射的に顔を上げてしまって、ギュスターヴに悪戯が成功した子供の様な顔を真正面から見ることになる。
楽しげで、その中に柔らかさを伴った、愛おしさを隠し歴ない様な笑い方だった。
伸ばし始めた髪を括っていた紐を抜き取って、一層ギュスターヴが気の抜けた格好になる。
自分ばかり肩苦しいことを考えているのが、馬鹿馬鹿しくなってきた。

「はあ……」
「びっくり、しただろ?」
「…色々な意味でな…私ばかり生真面目に考え事をしているのが、馬鹿みたいになってきた」
「なに言ってんだ、昔っからケルヴィン馬鹿じゃないか」
「なっ…!」

突然飛び出してきた暴言に、身を乗り出して反論をしようと詰め寄り、馬鹿はお前だと言ってやろうとした。
しかし、それは言葉にならなくて吐き出す息にもならなかった。
同じように身を乗り出したギュスターヴに、口を塞がれていた。
僅かにアルコールの残る唇の味に、怒りがすうと静まる。
絆されている、キスだけで起こる気力が失ってしまうなんて。

「っ…は…」
「んっ……な、ケルヴィン。びっくりした?」
「………びっくりしたよ…お前、言わせたいだけだな?」
「キスしてやりたいって思ったのはほんと。ほら、もう一杯。開けたら飲みきれないと、炭酸が抜けきっちまうよ」

薄く桃色を残したグラスに、また新しく湖が出来る。
大人しく椅子に腰かけて、たっぷりと注がれたグラスを持ち上げる。
溢れるほど注がれた桃色のそれにくちづけて、これは随分と酔いそうだと思う。
ボトル一本空けるほど飲んだら、また今夜も夜は長くなるのだろうな。

「酔いつぶれてもベッドまでおぶってやらないからな」
「ん?ソファーがいいの、ケルヴィン」
「……馬鹿はやっぱり、お前だ」

その馬鹿に一生誓ってる自分は、やっぱりギュスターヴが言うように、馬鹿なんだ。




4月8日誕生花「ヘーベ」…永遠の命、青春
属名の Hebe(へーべ)は、ギリシャ神話のゼウスとヘラの娘、ヘラクレスの妻である青春の女神ヘーベから名付けられた名前。
ヘーベがお酌することをギリシャ語で「ヘーベエリュエケ」というのですが、それが日本に伝わる間に変化して「へべれけ」という言葉が生まれたのだという説も。
酔いどれの話



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