本棚1

□溶ける理性とカカオの塊の嚥下音
1ページ/3ページ




世の中には、バレンタインという行事がある。
それは俺も知っている。
実際、学生の時には社交辞令なりにもらったし、毎年、看護師達も律儀に用意してくれる。
たとえ、愛だ恋だのが関わっていない、いわゆる義理チョコでも、貰えば嬉しい。
そもそもこんな行事になっているのは日本ぐらいで、一番最初にバレンタインが広告されはじめたのが1936年の神戸モロゾフ製菓が「あなたのバレンタイン(=愛しい方)にチョコレートを贈りましょう」というコピーをつけたのが最初とされていて。
世間に認知されても60年弱の浅い行事だ。
起源は聖バレンティヌスが迫害されたとされたり、バレンタイン牧師が銃殺されたりと、実際かなり血生臭いのが元なのに、今じゃあ愛を告白する日だという定着が日本じゃ強い。
全く、失礼なものだな。
もっとも、それによって勇気を振り絞って告白する可愛らしい女の子もいるわけなのだから、一概に悪いもんだとはいえないわけだ。
バレンタインは可愛い女の子が主役の行事なんだ。


「だから、帰れ」
「長々とご説明頂きありがとうございます」
「礼はいらないから帰れ、言っただろう?バレンタインは、女の子が主役の行事なんだ。むさい男二人がいる行事じゃねぇんだよ」


俺は、バレンタインに関する事をまとめた書類を辰巳に付きつけて帰るように促す。
きっとこいつの事だから、バレンタインだなんだとかこつけて来るだろうとよんでいた。
だから、絶対に流されない為にもバレンタインなんて事がいかに無意味な行事であるかを懇切丁寧に説いてやった。
バレンタインなんて行事は日本じゃ甘ったるい行事だけど、こんな辺鄙な村にまでそんな雰囲気が蔓延してると思うな。
辰巳はソファに座ったまま、嬉しそうに頷いて俺の話を聞いている。
ちくしょう、今日だけは絶対に、何があっても部屋にも、医院にも入れてやるものかと思ったのに。
見た目のまま筋肉馬鹿ならよかったのに、無駄に知恵があるから困る。
使用人とはいえ「兼正」が「尾崎」に相談があると言って、あまつさえ、「助言頂きたい」と言って正面から来たのだ。
自室で警戒していた俺には、とんだ誤算で、お袋はほいほいと辰巳を部屋へと連れてきてしまった。
自分の爪の甘さにため息をはく。
部屋まで入れてしまっては、もう諦めるという選択肢しかないのが本当に悔しい。
力づくで返らせるには無理があり、すでに日常になりつつある辰巳の訪問は諦めるという選択肢は最近ではほとんどだ。
俺はお袋に連れられてきた辰巳を見た瞬間、ほとんど諦めを感じていた。
最近、わかったのだが辰巳は嘘をつかないのだ。
含むような言い方をするだけで、嘘、偽りだけは口にださないのだ。
しかし、それと俺が辰巳に気を許すかは別だ。


「まぁまぁ、いいじゃないですか!先生、甘いものお好きでしょう?」
「あいにくコーヒーはブラックなんだ」
「じゃあ余計に甘いものを取られたほうがいいですよ」
「この・・・揚げ足とりやがって・・・ッ」
「ほんとに、少しは甘いものでもとってください。目の下、また隈が酷いですよ?」


ふぃと伸びた手に、目の下をそろりと撫でられる。
大きな無骨な手はまるで目の下に広がる隈を労わるように動く。
それに思わず目を閉じてしまいそうなほど、その手は優しく、とてもその隈の原因をつくっている奴のしぐさとは思えなかった。
見えないように口を強く噛み、精一杯眉間にしわをよせて、その手を跳ね除ける。


「触るな、誰のせいだと思ってんだ」
「まぁ、僕たちのせいですよね」
「わかってるなら俺に杭打たせてくれ、そうすれば、俺はゆっくり休めるってもんだ」
「先生のお願いは可能な限りきいて差し上げたいんですが、そればっかりは出来かねます」
「そうか、残念だ」
「今日のところはバレンタインのチョコレートで我慢してください」


辰巳は紙袋の中から箱をいくつか取り出す。
結構種類があるなとしげしげと眺めながら、なんだかこいつが来るたびに何かしら食い物をもらっている気がしてならないと思い至る。
餌付けされているようなそれに、盛大に顔をしかめる。




次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ