本棚1

□ルナリナ
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日用雑貨の補充をして、ひとまず敏夫さんの用事を済ませることにした。
夕飯の買い物は帰り道の方が生ものを気にしなくていいし、十分にご用事に付き合う為にはその方が良い。
なんだか主夫業がすっかり板についてきた。
使用人というのは肩書きだけではなかったので、一通りの家事炊事はこなせるのだが最近は、使用人よりもずっと主夫業という方があっている。

「夕飯の買い物は帰りにしますので、先にご用件を伺いますが」
「ん、とりあえず行くか」
「はい」

駅に向かって歩いていく敏夫さんを追いかけ、隣に並ぶ。
自宅から商店街を抜ければ駅の比較的よい立地条件のおかげで、ほんの5分歩けば駅につく。
そんなに遠くまではいかないだろうと思ったのだけど、敏夫さんが10も先の駅の切符を買ったのを見て内心驚く。

「遠出なさるんですか?」
「まぁな」
「でも、何か用事があるにしてもそちらの駅の周辺は何も…」
「まぁ、ちょっとな」

ほら、と自分の分の切符を渡されて、ちょうどやってきた電車に乗り込む。
車内は平日の昼間という事もあってか、ほとんど人が居ない。
私鉄の電車よりも車の方が重宝される様な場所なのも手伝ってか、乗車率は自分達を除けばゼロだった。
断言できるのは、電車がたったの3両しかないからだ。
真ん中に乗った僕たちは、ほんの少し両方を見まわすだけで把握できてしまう。
温かい暖房に息を吐く。
車中の窓は、外気との温度差に白く曇っていて、軽く指でなぞったら文字がかけてしまいそうだ。
普段から敏夫さんから話題を提案する事はあまりないけれど、今日はそれに輪をかけてあまり喋ろうとしない雰囲気があった。
喋りたくないのなら、わざわざ用事を根ほり葉ほり聞く必要はない。
着いたらどうせ説明されるのだし、言いたくないなら一人で出かければいいのだ。
一緒に来ることを許されたのだからそのうち説明されるだろう。
僕と敏夫さんの会話が無くなれば、鼓膜を揺らすのは電車の動く機械の擦れる音と振動と、わずかばかりの脈拍。
自然に隣同士に座って、その距離は多分、大の男が空いた車内で座りには近い。
けれど、誰もいないからいい。
敏夫さんが何も言わないのも、僕が何も言わないのも。
外は晴れているけれど、どことなく雪の雰囲気を匂わせる灰色がかった青空で、暖かな車内は徐々にまどろみを誘う。
このままどこまでも行けるのではないかと錯覚するぐらい。

「…鯖」

しかしながら、その穏やかな、言ってしまえばいい雰囲気は敏夫さんの一言で綺麗に吹き飛ぶ。
本日何度目かわからない突拍子もない発言に、手ぐらい握ってもいいかなと思っていた僕の気持ちが本当に綺麗に、華麗に、消え去ってしまった。
僕と敏夫さんは若いカップルみたいに外で恋人の行為をする事は日本ではやはりできないし、そもそも出来たとしてもしたがらない。
それでも、誰も見ていない今ぐらいはと、思ったのに。

「…本日の夕飯ですか」
「鯖のみそ煮がいいな」
「わかりました、みそ煮ですね。他には御所望は?」
「ビール」
「それもいつもので?」
「あぁ…辰巳」
「はい…、ッ………嗚呼、もう…」

さらに夕食のリクエストかと思ったのだけど、返事を聞くよりも早く敏夫さんの手が僕の手を握る。
まるで僕の考えを読みとったかのようなそれに、本当にこの人には敵わないなと思う。
彼の生来の気質なのか、それとも医者として患者の意図を汲み取る事に長けたのか。
何も言えずにいると、小馬鹿にしたような顔で敏夫さんが言う。

「へっ、たまには若人を甘やかしてやろうかと思ってな?」
「…僕の方が年上ですよ」
「だろうな。けど、お前の肉体年齢は外見のままで恐らく老化も緩やかだ。思考というのは思ったよりも肉体に見合った感覚で止まっているものだ。成熟していくのも肉体に見合った反応。ま、俺は脳は専門外だから憶測でしかないがな」

くつくつ、ジャムが小さく気泡をあげるように敏夫さんが笑って、また静かに口を噤んだ。
暖かな電車の小さな長方形は、足元からとろ火で煮立てられている。
このまま真っ赤な苺ジャムになったら、それはそれは素敵なことだろうなと、また突拍子もない事を考える僕の頭は沸騰してぐずぐずだ。
決して女性的とも言えない、けれど思ったよりも細い指に自分の指を絡めて握る。
恋人ごっこみたいですねと、からかいの言葉が喉を通りぬけようとしたけれど、音にはならなかった。
その恋人ごっこに安堵と幸せを感じているのは、他ならぬ僕自身だったから。
今までの人生を思えば、考えられないほどの幸福と充実感と、生きているという感覚だった。
それなのに、このまま死んでもいいとすら思うのは、酷い矛盾だ。
ひとつ、ふたつと数えていた駅数も呆けた頭で馬鹿な事を考えている間に目的地に着いてしまう。
海岸沿いの駅は、降りればすぐに潮風が飛んでくる。
いくらか遠いとはいえ、外場よりは海に近い場所だったので、簡単に来れたけれど一体なんの用事があるのだろうか。
海水浴をするには自殺行為としか思えない冬の海は、電車と同じように人が居ない。
二人だけだ。

「どなたか人を訪ねるのですか?」
「なんでそう思う」
「ここら辺にお店はありませんし、娯楽施設もありません。海水浴客向けのお店はありますが、わざわざ遠出をしにくるようなものはない。そもそもシーズンが外れてます。とすれば、人を尋ねに来たのかなと」
「さすが辰巳だ。賢い。けど、違う」
「違いましたか」
「話がしたいんだ、お前と」

話しながら歩き出した敏夫さんの後を追って、駅を出る。
海岸の堤防を降りて行くと、さらに潮の香りが強くなる。
人狼の鋭くなった嗅覚は、強すぎる匂いは行き過ぎると麻痺する。
潮の香りはそれほどに強く、鼻はほとんど効かない。
敏夫さんがスニーカーのまま砂浜を横切り、波打ち際まで行ってしまうのをスニーカーの中がきっと砂まみれになってしまうなと思いながら見る。
足跡の隣を歩いて、敏夫さんの傍に近づく。

「ここじゃなきゃ、駄目なんですか?」
「大事な話をするっぽくていいだろ」
「大事な、お話なんですか」

波打ち際、足元が濡れるギリギリまで足を進めて、敏夫さんが背中を向ける。
その背中を振り向かせて、真っすぐに顔を見たかった。
けれど、そうしてしまうと敏夫さんが大事な事を離さなくなるのがわかったので、無理矢理暴く事はしなかった。
いつもと明らかに違う様子に、戸惑ってもいた。
まるで、別れを切り出すようではないか。

「お前と最初にあった時の事は覚えている。そして、今になって、お前に好きだと言っている自分に、とてつもない罪悪感を覚える。わかるか?俺は、村をあんなに憎んでいたはずなのに、その実あの村に強く根付いていた体裁を取り繕うとする感情が、抜けないんだ。未だに俺は、あの村から逃げられない」
「逃げたいんですか」
「いや、それだったら、お前たちに村なんかとっくにくれてやっていた」

叶わない夢を見て、それで満足だったんだ。
そう言って笑う先生は、ポケットに入っている煙草を出して、吸おうとして止めた。
その仕草もやはり、いつもの様子と違っている。
チェーンスモーカーの敏夫さんが、意識的に煙草を吸うのを止めるなんて。

「なにか、ありましたか」
「なにもとはいえない」
「聞かせてくれるのでしょう?」
「…お前と俺は、見た目は同じだけど、お前は死なないけれど俺は死ぬ。そういう生き物だ」

ようやくこちらを振り向く敏夫さんの顔は、ほんのすこし薄暗い。
太陽が陰って、気温が下がる。
なにか大事な事を言おうとしている時に限って、吹き抜ける風の音がうるさくて困る。

「俺は、死ぬんだ、辰巳。死ぬんだよ」

よりによって、どうしてその話を今日するのだろうか。
朝思ったばかりなのに、どうして。
自分で考えるよりも敏夫さんに言われる方が、ずっと心臓に重く突き刺さり血があふれる。
杭に穿たれた胸から血が溢れる。
止まらない。
僕と敏夫さんはいつでも血まみれだ。

「はい…知っています。けど、起き上がれば」
「お前なぁ…俺が起き上がりたくないのわかってて言うのか」
「はい。僕は、敏夫さんを失いたくないと、貴方が人間である以上、僕と貴方には必ず永遠の別れが訪れるのです。知っていますか、貴方が思っている以上に、僕は貴方無しでは生きていけなくなっているんですよ」
「…知ってた。だから、こうやって大事な話をしているんだ」
「……なにかあったんですか。この間の健康診断ですか」
「おぉ、さすが辰巳だな。賢い。それは正解」

唾液をゆっくりと飲み込む。
塩辛い気がした。
だからあれほど、煙草とお酒は少し控えた方がいいと言ったのに。
まだ敏夫さん、四十歳にもなっていないのに。
いくらなんでも早すぎる。

「煙草や酒は止められないから、なるなら胃ガンか肺ガンだと思ったんだがな…食道ガンだった。早期だったし小さいから摘出できる。けど、ガンが見つかったって事は、俺は思ったよりも長生きはできない」
「先生…ちゃんと病気になるんですね」
「それはどういう意味だ。…まぁ、月並みな病気で死ぬんだなとは思ったよ。俺はもっと、何か別の事で惨たらしく死ぬんだと思っていたからな」

病気で死ねるなら、まだマシかもしれない。
くつくつ、笑う敏夫さんの喉は渇いているのか、掠れている。
不確かに揺れる腕を掴むべく踏み込み、自分よりも筋肉のついていない体を抱きしめる。
驚くほどに自分が愛されている事に、今度は別の事で胸が震えた。

「おい…人がいたらどうすんだ」
「誰もいませんよ。冬の海ですもの」
「…そうだな。でも、駅のやつからは見えるかもな」
「悪ふざけにしか見えませんよ」

それもそうだな、と肩から力を抜いた敏夫さんの首筋に唇を寄せる。
血と一緒に敏夫さんを蝕む全ても僕が奪えたらいいのにと思うけど、そんな事は不可能なのでそれこそ海の彼方へ投げ捨てる。

「敏夫さん」
「なんだ」
「…好きです」
「知ってる」
「愛してます」
「それも知ってる」

タイムリミットを設けられてしまった今、眼の前に僕は触れ続けるという選択しかない。
この先、きっと何度も敏夫さんを殺そうと思うだろう。
失うことが惜しいから、何度も、何度も、起き上がることを願うだろう。
けれど、敏夫さんが死ぬまでそれは実行されない。
僕が敏夫さんをもっとも愛おしいと思うのは、鮮烈に瞬間を生きる姿を見つけた時だからだ。




◆ルナリア◆
(はかない美しさ)












1月20日の誕生花「ルナリア」
誕生日おめでとうございました





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