本棚1

□ルナリナ
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尾崎の先生が先生になって、尾崎さんって呼ぼうとしたら名字は好かないからと敏夫さんと呼ぶ様になって、気が付いたら3年が過ぎていた。
歳を取ると光陰矢のごとし、まるで光のように時間は過ぎていくというけれど、ここ数年はそれをひしひしと実感した。
敏夫さんと過ごすここ数年だけ、まるで早回しのように時間が駆け巡るのだ。
とっくの昔に時間の感覚なんて捨ててしまったと思ったのに、まだ僕にはその時間の感覚があって、その流れていく時間が惜しいと思ってしまう。
絶対に留めることが出来ない時間は、流れれば流れる分だけ敏夫さんとの時間を積み重ねていくけれど、その分彼の寿命を奪って行く。
それが僕には惜しくてたまらない。
だから、思い出した様に彼の事を人狼ないし、屍鬼にしてしまえば永遠に一緒にいられると思うのだけど、それを実行に移す事が出来ないから今、その流れる時間が惜しいと思う。
鮮烈に生きる彼を愛おしいと思う反面、彼のその鮮烈な時間を奪い去ってしまいたいと切実に願う。
僕の抱えた矛盾は一生、それこそ永遠に彼に言う事はないし、言葉にする事はない。
それはすでに予感として、僕が敏夫さんを屍鬼にすることも人狼にすることも決してないのだという思いがあるから、それだけは確実。
諦めが悪い僕は何度でもその可能性を持ちだしては、心の中で首を振る。
人間として生きる彼が愛おしいと同時に、起き上がらなかった時の事を考えると、今すぐにでも一緒に心中したくなるから。
起き上がらなかったら僕は、きっと生きてなどいけない。
たった一人を愛する事なんてイレギュラーは、一生起こらないと思ったのに、敏夫さんを失うことを考えただけで胸が潰れるほどの苦しさを覚える僕は、彼に永遠を囚われてしまったんだ。
一生を永遠に変えた僕は、敏夫さんの儚いと言ってもいい一生が、堪らなく愛しくて苦しくて、それこそこのまま時間が終わってしまえばいいのにと馬鹿な事を考えるほど。
ぼんやりとカレンダーを眺めながら、今日がその愛おしい敏夫さんと一緒に暮らし始めた日であることを認識して、ようやく意識が目の前の事に戻ってくる。
沙子と一緒に居る時は、あまり日付というが重要ではないので季節ぐらいしか認識していなかったけれど、敏夫さんと暮らし始めてからは毎日がカウントダウンだ。
また、思ったよりもずぼらな性格をしている敏夫さんにゴミ出しの曜日を覚えてもらうのはまず無理なので、自分がやる以外には選択肢はない。
しゅんしゅん、湯気をもうもうと吹き出して今にも音を鳴らしそうなヤカンを止めて、カレンダーからようやく視線を外せば、目の前には朝食の準備がほとんど出来あがったガスコンロ。
ハムエッグと焼きあがった食パン、それとは不釣り合いだけど味噌汁。
最初の頃はパンに合わせたスープだったのだけど、味噌汁の方がいいという注文を受けてからは味噌汁にしている。
それとインスタントコーヒーにお湯を注ぎ、砂糖を2杯とミルクを少々。
朝は頭を働かせるためにも甘めのコーヒーを入ろというお達しがあったから。
それもこれも、全部敏夫さんの好みに合わせた結果。
沙子や千鶴は見た目も重視する方だったから、今日のような食事を出したら怒られるだろうな。

「うーん…なんだか今日は、妙に比較をしてしまうな…」

朝から小難しい事を考えてしまったせいか、今と今までを自然に比べている自分に溜息をつく。
そうやって比べる事で今を実感するのも悪い手段ではないけれど、僕にとっての今までとこれからでは意味合いも種類も違う。
比べたところで優劣すらつけられないのだから意味なんかない。
それなのに、そうやって比べてしまうのは今があまりにも今までと違うからだ。
好きな人と生活をする事なんて、それこそ殺されるまであり得ないと思ったのに、好きだと思える人と一緒に暮らしている。
半分死んでいるようなものなのに、こんなに生き生きとした幸福を享受していいのかと、疑問に思ってしまうほど。

「おい」

背後からかけられた高圧的な声に、しまったと思ってももう遅い。
ごん、骨に向かって突き出された恐らく拳が背中に来て、その衝撃に軽く息を詰まらせる。
真剣に痛いタイプの拳に、思った以上にご機嫌が悪い事を悟る。

「お、はようございます。敏夫さん…」
「おはよう辰巳君、で?一体何と何を比較したんだい?」
「いえいえ、敏夫さんが気にする様な事は何もないですよ?」
「そうかい辰巳君、隠し事とは残念だなぁ。君と俺と、隠し事なんか何もない関係だと思ったんだけどな」

隠し事もない関係というのを敏夫さんから言ってもらえるのは嬉しいけど、今の機嫌で言われるのは素直に喜べない。
困ったな、別に言ってしまってもいいのだけど、きっといい気分にはならないだろう。
ただ、隠し事をする方がよっぽど面倒な事になるのを知っている僕には、そのまま隠し通すという選択肢は選べない。

「沙子と一緒に住んでいた時に、パンに味噌汁なんて出したら絶対に怒られたなと思いまして」
「ほう、お嬢ちゃんは異人さん気取りか」
「組み合わせと見た目の問題だと思いますけどね。栄養が取れればどんな組み合わせでも、なんてずぼらなのはどうかと」
「煩いな。俺は今まで和食で育った人間なんだ。文句あるか?」
「いえ、ありません。ただ、敏夫さんと一緒にいる生活は、今までなかった事が多いなと…そうやって思っただけで、決して敏夫さんの事を誰かと比較しただとか。ましてや浮気なんかじゃないんですよ?」
「…そんな心配はしてねぇんだよ、性欲人狼」
「やっ!酷い言い様ですね!」

忌々しいと言わんばかりに顔をしかめた敏夫さんは、踵を返して洗面所へと向かう。
その背中を眺めて様子を伺うけれど、特別さらに怒った様子はなさそうだ。
あまり御機嫌を損ねなかった事に内心安堵して、インスタントコーヒーの粉末が入ったコップにお湯を注ぎ始める。
一度、喪失を知るとヒトは縋るモノを探して、その縋るモノを見つけてしまったら二度目が恐ろしくなる。
酷い話だが、今の敏夫さんに取って縋るモノは僕だ。
そして同時に、僕にとって縋る者でもある。
確かに僕は敏夫さんを愛しているし、敏夫さんも少なからず僕を好いてくれているし、キスだって、ハグだって、セックスだってする。
それでも、僕達が傷の舐めあいをしていることだけは、変わらない事実だった。
きっとそれだけは、僕と敏夫さんが死んでも変わらない事実なんだと、僕は思っている。

「くあ…」

振り向けば、顔を洗ってきた敏夫さんがちょうどダイニングテーブルについた所で、いつも通りに新聞を開き始める。
朝起こしに行かなかったのはイレギュラーだったけど、この調子ならいつも通りに穏やかな休日になるのだろうなと思う。
ご機嫌とりばかりをするつもりはないけれど、せっかく敏夫さんの仕事がない休日なのだ。
何事もないのが一番いいに決まっている。
朝食を運んで自分も席につけば、何も言わなくても敏夫さんが新聞を畳んで横に置く。
その一連の流れに、まるで夫婦の様だなと思ったけれど、口には出さなかった。
そういう事を言うとまた敏夫さんは苦虫をつぶしたような顔をするから。
忌々しげな顔は照れ隠しだとわかっているけれど、その顔を見たいがために意地の悪い事を言い過ぎて、本気で喧嘩になった事があるのでしない。
生存競争的な観点から見れば、僕の方が捕食者だ。
だからその気になれば敏夫さんを殺してしまう事は簡単だ。
ほんの少し、その不健康な細い腕を捻り上げて、のけ反り曝け出された首筋に噛みついて、煙草とお酒でドロドロな血液を吸い上げてしまえばそれでおしまい。
けれど、この小さなアパートの中という括りで見れば、途端に強いのは敏夫さんだ。
先の惚れた弱みといえば聞こえがいいけれど、僕は敏夫さんには勝てない。
この人を失う様な事だけは、絶対にあり得ない出来事であってほしいと思うほど。
やっぱり、惚れた弱みだ。

「いただきます」
「はい、いただきます。敏夫さん、本日のご予定は?」
「呼びだされない限りは休み。お前は?」
「僕も買い物に行く以外は出かける用事はありません」
「そうか。なら煙草も一緒に買っておいてくれ。カートンで」
「わかりました。いつものでよろしいんですよね?」
「あぁ」

返事の通りに、どうやら今日は出かけるよりは家にいたいようなので恐らくは放っておかれるのがいいのだろう。
過干渉だと子供扱いをされていると思うらしく、敏夫さんはとても不機嫌になるのでそうならないように気を付けている。
僕としてはズボラな敏夫さんのサポートのつもりで過干渉の気はないのだけど、自己中心的な所がある敏夫さんからするとそれは指図されているように感じるのだろう。
年齢の割合だけで比べれば敏夫さんは相当に僕よりも年下になるのだけど、だからと言って三十を超えた男性がこれでいいのだろうか。
単純に性格もあるのだろうけれど、彼はそうやって我儘や口の悪いことを言っても許される環境にあったのも大きな要因だと思う。
彼の大嫌いな尾崎という要素が彼の人格形成に少なからず影響を与えたと言っても過言ではない。
育ちによって人は変わるとは一概に言えないけれど、神様がそうやって生きることを決めているというよりはよっぽど良い。
神様が居ないのは、僕も敏夫さんも知っている。
それは僕が死んで起き上がり人狼であることを受け入れた時、敏夫さんが屍鬼という存在を認めて自分の手で村を守ると決めた時。
どちらも憶測でしかないけれど、確かに敏夫さんも僕も、神様という存在をまるきり信じていないのは明白だった。

「辰巳」
「はい」

敏夫さんの意思の強い視線が、まっすぐにこちらを見る。
髪の毛と同じ、けれど虹彩にわずかに茶色が入った敏夫さんの目は、いつ見ても光が消える事がない。
この目から光が消えるのは、きっと敏夫さんの寿命が全うされて、唐突にけれど確実に訪れる死によるものなのだろうなと思う。
僕には決して訪れない瞬間。
それはまだまだ遠いはずの未来で、珍しく死が怖いと思う瞬間。
僕は自分が死ぬ事は決して恐ろしい事ではないけれど、敏夫さんが死ぬ事はとても恐ろしい。
彼が死んだ瞬間に、やはり僕の生は終わるのだ。
一度も死んでいないで死ねない僕は、そこでようやく死を迎える。
そう考えれば、僕と敏夫さんがあそこであれだけ鮮烈に殺し合いをすることになったのも、こうして一緒に生きているのも運命に近いのだろうと僕は思っている。
敏夫さんに言ったら馬鹿にされてしまいそうだけど、敏夫さんに関することだけは僕は相当にメルヘンチックなんだ。
真っ直ぐの視線と同じだけ直線的な響きを持つ声が、それはそれは衝撃的な事を口にする。

「やっぱり、俺も買い物に行く」
「えっ」

それはもう、見事な反射で出てきてしまった驚きの声に、視線の温度ががっくり下がる。
見る間に敏夫さんの目が細くなって、ようやく上昇してきた機嫌がまたもや一気に降下していく。
慌ててそれを追いかけたいと思うのだけどそうもいかず、とにかく平静を保って少しずつご機嫌伺いに出るとする。

「なんだ?俺が荷物持ちじゃ不満か?」
「いいえ、滅相もございません。むしろ、光栄の極みってやつですよ」
「へぇ。それならなんで意外そうな声で、しかもそんなに驚いた顔をしたんだね辰巳君」
「先ほど外出されなさそうな事を仰っていたので、前言を撤回されるのは珍しいなぁと…それだけですよ?」

本心から、それ以外の含みはない事は誓える。
ほんの少しだけ、どんな気まぐれだろうと思ったのは、敏夫さんには秘密だけど。
眉間の皺は取れないけれど、もはやそれは敏夫さんに染みついた表情とも言えるから、判断材料にはならない。
そもそもポーカーフェイスは上手い人なのだ。
それにホイホイと引っかかる様な僕ではないけれど、欺かれる事がないとは言えないのだ。
残念ながら。

「まぁいいけどな。ついでに行きたい場所があるんだ。付き合え」
「もちろん、敏夫さんの行く場所はどこまでも付いていきますよ」
「殊勝な心がけだ」
「ええ、なんたって敏夫さんの番犬ですから」

おどけて言えば、ようやく敏夫さんが柔らかく笑う。
敏夫さんが怒る顔も正直な事を言えば悪くない。
けれど、殺し合う事がない暗黙の了解、いわばある種の契約の上で行われる正常な日常においては、やはり普通に笑っている敏夫さんの方がいいと思う。
沙子があの村で自分の場所が欲しいと願わなければ、恐らくあの村でずっと見れたであろう顔。
いや、室井さんがエッセイに村の事を書かず、そして沙子が村の存在を永遠に知らなければ、或いは。
珍しい、僕は贖罪なんて事を考えているのだろうか。
馬鹿な事を考えていると思う。
それこそ敏夫さんに怒り狂って、杭を打たれてもおかしくない事を。
僕と敏夫さんは残念な事に種族は分け隔てられている。
性別は同じなのに。


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