本棚1

□創作
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「兄貴、宗教の話をしよう」

振替休日を割り当てられた平日、午後三時。
いつもより三時間は遅く起床して、のろのろとしていたら出かけるタイミングを逃してしまったので家で本を読むことにした。
ちょうど読みかけて止まったままの本があることにも気が付いたので、早速とヤカンに火を入れて、インスタントのコーヒーをマグカップへと放り込んだ。
何か茶菓子があればとも思ったけれど、就職して三年目にもなるのに実家にいる自分が勝手に食べるのはあまりよくない。家賃はおさめているものの、積極的に家事を手伝うこともないので、好き勝手にはできない。
特に母が買ってきた物を食べると小言が五月蠅い。
仕方ないので砂糖を二杯と牛乳を注ぎ、カフェオレにすることで我慢。
そうして、居間のソファへ腰を落ち着けたと思ったら、博人がそう言った。
博人は俺の五つ年下の弟だ。
小さい頃は運動が出来る子だと思っていた。
キャッチボールをした時、博人はとてもコントロールがよくて、俺の方が見当違いの方向へ投げてしまうことが多かった。かけっこも一番で、小学校の徒競争でももちろん一番だった。
運動だけじゃないとわかったのは、博人が中学生の時。
当時の学年主任に母親が言われたのは、天才の一言だった。
中学二年生の中間テストで、博人は全教科百点と言う結果を出したのだ。
この時ばかりは母もあいた口がふさがらなかったと言っていた。急に家庭訪問をしてきたので、むしろ成績が悪い方だったのかと思ったとも言っていた。我が家では、成績表やテストの答案は自主申告制で、自分から見せない限り両親は知らない。
確か、その家庭訪問の時。教師が熱心に進学について語っている時に、俺はちょうど家に帰ったんだ。その話を聞いていた母が、嬉しそうに笑って言ったのは、好きにさせます、の一言だった。
よくも悪くも、父も母も放任主義であったのだ。
今は県内でも一番頭のいい学校の医学部に進んで、どうやら順調に進級しているようだ。
ブラザーコンプレックスと言われるかもしれないが、俺の自慢の弟だ。
そういう自分はといえば、県内でもそこそこの四年制大学に進んで、地元でもそこそこの広告代理店に就職して、まずまずの給料をもらっている。
一言で言えば、ぱっとしない。
博人と比べたらごく一般的な人生、普通の日々。
けれど、不思議と博人を嫌う事もなく、またねたむ様な感情もないのは、博人があっけらかんとしているからかもしれない。
そもそも、医学部に進学したのも普通の場所では知り得ない知識を知りたいと言った。
県外には出たくないから、県内で興味を引いたのが医学部のある大学で、たまたまそれが県内でも頭が良い所であっただけ。
博人にとって、選んだ理由がそれなのだから拍子抜けてしまう。
そうやって昔からどこか一歩ずれたような選択肢で選んでいくので、うちの弟はどこか抜けているという気持ちの方が大きくて、だから妬みや嫉妬が湧いてこない。
年が離れているのもあるかもしれないが、兄弟仲が悪くないのも理由の一つかもしれない。
その独特ともいえる感覚は、よい事なのか悪いことなのかはわからないが、博人が楽しそうだったらそれでいいかと思う。
その博人が、突然何を言い出したかと思う。
自慢の弟ではあるのだけど、それでも突拍子もない話しには、さすがに首をかしげざるを得なかった。
しかもその内容がよりにもよって宗教の話だというのだから、余計に怪訝な顔をしてしまう。

「何の話だって?」
「だから、宗教の話」

聞き間違いかとも思ったのだけど、どうやら博人は間違いなく宗教と言ったらしい。
その言葉に自然に眉をひそめてしまったのは、仕方ない事だと思いたい。
最近、近所で新興宗教の話が持ち上がっていて、それが信仰とは程遠い自分には酷く胡散臭いものに思える。
その理由に、父が神頼みというものが嫌いだったということがある。
神様に祈るという行為が、父にとっては許せないらしい。
神様なんかくそくらえだ、神様なんかいるはずない、姿も形もはっきりしないものなんかに頼って何になるんだ、といつも息まいていた。
それは俺が小さいころからの主張で、だから神様とか宗教とかに興味を持たなくなった。
擦り込みに近いかもしれないけれど、父がいうにはいないのだろうと幼心に納得した記憶があるがどうであったか。
その父も、神様は信じていない癖に幽霊は信じた。
高校生の時に、テレビの特番でしていた夏にはよくあるホラー映画のテレビ版を見ようとした。
そうしたら父が問答無用で野球中継に変えられたので、俺はすぐに抗議をした。
父は特別に野球が好きなわけでも、好きな球団があるわけでもないことを知っていたから、進んで野球中継を見るとはとてもじゃないけど思えなかったからだ。
その時の父はビールを煽りながら、幽霊は駄目だときっぱりと言った。
思春期らしい反抗心も手伝って、神様は信じてないくせにといったら、返って来たのは「幽霊を信じていたら、大事な人が死んでも悲しくないだろう」という父にしては珍しい言葉で、その後は大人しく二人で野球中継を見ていた気がする。
二人でヒットが出れば喜んで、ピッチャーが打たれれば落胆した。
どちらを応援しようと言ったわけではなかったけれど、ユニフォームの色がすがすがしい青色だった方を二人とも応援したのは偶然だった。

「親父に怒られるぞ」
「父さんは出かけてるから怒られないよ」
「でかけたのか?」
「本を買いに行くって言っていた」
「へぇ、そうか。いや、そうじゃなくて。突然どうした、宗教の話なんて」

ずれていってしまいそうな話の矛先を戻して、再度尋ねる。
タイミングとしては別段おかしくは無いけれど、我が家で宗教の話をするというのはやはりどこか違和感を感じた。
家の習慣というべきか、父の教育の賜物とでもいうべきか。
擦り込みと言うのは恐ろしいものだ。
読みかけだった本はまたの機会にすることにして、三分の二ページあたりで開かれたページにしおりを挟んで机の上へ。
そのテーブルを挟んだ対岸のソファに博人がマグカップを置きながら座るのを確認する。

「近所で新興宗教の勧誘が多いっていうのは兄貴も聞いただろう?」
「あぁ…まぁな」

案の定、博人の話は近所でもっぱら噂になっている事のようで緩慢に頷く。
カフェオレを口に含んで先を促す。

「それもあるけど、最近学部で宗教の話を教授がしたんだ。宗教とか神様とかは父さんが嫌いだからさ。聞いたことなかった」
「宗教家はいないからな」
「そう、宗教家はいないから。だから、兄貴はどう思っているんだろうなって」
「なにを」
「宗教を」

世間話の時事ネタにしてはすこしばかり荷が重い内容で、口をつぐむ。
博人は茶化す様な様子もなく、また真剣に議論がしたい様子でもなかったので、恐らく博人にとっては本当にただの世間話なのだろう。
人によっては議論だけでは留まらず、口論にすらなりそうな話題を平然と世間話にする弟は、やはり少し考え方がずれている。
でも、嫌じゃない。

「宗教なぁ…」

うさんくさい。
よくわからない。
怖い。
思いつくそれはどれもが良いイメージがなくて、それもこれもやっぱり父の影響なのか、それとも自分が単純に宗教についてよく知らないからか。
果たしてそのどちらもなのか。

「宗教というと難しいかな。そうだな、どちらかというと神様について聞きたいかもしれない」
「神様。仏様じゃなくていいのか」
「あぁ、仏教と神道じゃ違うんだっけ。最初に宗教とか言ったのが悪かったかも。あのさ、兄貴は神様って信じてる?」

ようやく話の意図を掴んだ俺は、しばし悩んだ。
悩むのはほとんど振りだったけれど、それでも少し言葉を選んで、言う。

「信じていないよ」

そう、信じていないんだ。
神様がいないという証明は、すでにされている。
神様はいないし、祈っても救われるのはほんの少しの罪悪感くらい。
俺の身近な知人の祈りは届かないし、まして殺人の懺悔も、夢すらも届かないと言うことを俺は知っている。
そうか、とだけ言った博人は一口カップの中身を飲みこんで、片方の眉を上げる様にして、もう一度そっかと言った。
煮え切らないというか、なんとも拍子抜けな返答に、俺ばかり根掘り葉掘り聞かれている様な錯覚を受ける。
実際は葉の裏側をひょいとひっくり返された程度しか聞かれていないのだけど。

「そういうお前はどうなんだ」
「時と場合による」

即答された返事を飲み込んで、顔をしかめた。
よりによって、なんて曖昧な返事なんだ。
信じてもいるし、信じてもいない。
どちらにも取れる返事はこたえた事にはならないんだぞ、と言えばそうだねとまたはっきりとしない誤魔化されたような返事が返ってきた。
博人はもう一度、カップに口をつけて、目を伏せた。

「占いみたいなものだと思うんだ、神様って」
「神様に伺いをたてて、っていうやつか?」
「良い結果がでたら信じる、という方が近い」
「だから、時と場合によるか」

納得がいくようないかないような、やっぱり煮え切らない答えに首をかしげる。
神様がいるかいないかを好きな時に信じると言うのは、日本人的な考えであるとは思う。
なにせ日本では神頼みの際には神様仏様というのだ、仏教と神道に同時に縋るなんて。
大層都合がいい話だ。

「信じたい人は、信じたいじゃない、神様」

それは、親父の言った幽霊を信じている理論と似ている気がした。
親父が言っていたのはもしかしたらその場限りの言い訳であったかもしれないけれど、けど俺にはその理由の方がしっくりきた。
信じたい人が信じればいいものなんだ。
俺が神様を信じている人を批判する事も出来ないし、否定をする事もできない。
それは、傲慢な事にあるように思えた。
信じるという感情は、誰にも干渉できないものなんだ。

「そうだな」
「うん。でも、新興宗教で商売をする人を擁護する気はないけど」
「やっぱりその話か」
「そんな気はないんだけどね」

どうしてもその話になっちゃうね、と言って笑う博人は柔らかに笑った。
ふと、気がつく。
宗教の話をしようと言い始めてから、博人は一度も表情を崩すことなく淡々と喋り続けていた。
それが今になってようやく崩れたのはどういうことなのか。
不意に浮かんだのは、小学校3年生の博人の姿だった。
知識が増えて、本を読む事が増えていった博人が、今日のような世間話のように切り出した話は、サンタクロースについてだった。
兄貴は、サンタさん信じてる?
その頃の俺はまだサンタクロースの事を無邪気に信じていたので、すぐに信じていると即答した。
そうしてそっか、と言ってふわりと笑ったんだ。
あぁなるほど、だから今日はそんな話を始めたのか。
何があったか知らないけれど、きっと何かあったんだ。
俺は手を伸ばして博人を呼ぶ。

「なに?」

顔を寄せてきた博人に、俺は何と言えばよいか考えながらその栗色の髪を撫でた。
淡い光の透けるとさらに柔らかくなる髪を撫でながら、そうだなぁと切り出して。
決して博人の事を救えないとわかっていて口にする。

「神様が味方してくれなかった時は、俺がしてやるよ」
「…ほんとうに?」
「本当に」
「子供扱いされて言われてもね」
「俺からすればいつまでたってもお前は弟だよ」
「そうだね、俺からしても兄貴はいつまでたっても兄貴だ」

誰かの事を掬えるなんて、それこそ思い上がりも甚だしい、そんな事は言わない。
けど、どうかお前は独りで生きているのではないと。
傍にいることしかできない不甲斐ない兄貴を許してほしいと、誰にともなく、祈った。



かみさまのはなしを、しよう。











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