本棚1

□機械音痴と蟲籠と赤と黒
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ジリジリと喧しい目覚まし時計の音を止めて、一度布団の海に戻る。
そうしてからもう一度顔を上げて、時間を確認する。
朝だ。



■機械音痴と蟲籠と赤と黒■



くぁ、と吐き出されるあくびをかみ殺して、とさり、と袋を置く。
アパートの正面にゴミ捨て場が設置されているお陰で、ゴミ捨ての為に早朝から出かけるという事をしなくていいのは助かる。
なにせ、一命は取り留めたと言っても左半身が動きづらいのは治るものではない。
あまり遠いと、回収の八時に間に合わないのではと危惧したのだが、そういう所も見越して選んでくれた葵さんに感謝する。
優しく目を細める姿は、お世辞抜きで聖母そのもの。
けど、その聖母の一言で、俺は時臣なんかと一緒に生活しなくてはいけなくなったので心境は複雑だ。
とたとた、よたよたと足を動かし、持ち上げて部屋へ戻る。
今はルポライターの仕事じゃなくて、簡単な翻訳と自宅で出来る編集作業をして生計をたてている。
そんな事をしなくても、全ての元凶である時臣に生活費など全額負担させてしまえばいいとも思うのだけど、この生活が終わった後の事を考えるとまだ生かされているうちは生計を立てなくてはならない。
それに、ただでさえ多少の魔力供給を手伝ってもらっているのだからこれ以上、時臣の世話になるのだけはごめんだった。

「雁夜!」
「んぁ…?」

ふぁ、やっぱりこらえきれなかったあくびをしていると、前方から名前を呼ばれる。
声を聞いただけで誰かはわかっているし、俺の事を名前の呼び捨てで呼ぶのなんて限られているから驚くこともなく。
また、今の生活の様子を思えば当然の人物なのだが、なぜか酷く慌ててこちらに来る時臣に首を傾げる。
それと一緒に怪訝な目線をくれてやるのも忘れない。

「なんだよ時臣」
「今朝はまだ冷えるんだから上着を着て行かないと、君が体調を崩したら大変だ」

そう言ってばさばさとセーターをかけて、挙句の果てにストールまで巻いてくるので呆れて溜息が洩れる。
まるで、俺を子供か何かの様に扱いやがって。
年齢では確かに自分の方が下なのだが、決して時臣に子供扱いされるほど年下ではない。

「…ごみを出しにいくだけなのに大げさなんだよ」

セーターとストールだけでは飽き足らず、自分の上着まで脱いで着させようとする手を止めて、止めていた歩みを再開してそれを回避する。
けれど、上手く動かない左足のせいですぐに時臣に追いつかれてしまって、逃亡作戦は成功とは言えない。
さすがに上着をかけようとするのは考え直してくれたようだが、今度は右手を掴まれて驚き盛大に肩を揺らす。

「っ、なんだよ…!びっくりするからせめて声ぐらいかけろ!」
「エスコートしようか?」
「…はぁ?」

駄目だった、前言撤回。
全然諦めていなかった。
しかも悪化した。
まるで、麗しいどこぞの令嬢の手を取る手つきで俺の右手をすくい上げて、まさに優雅に隣に歩こうとする。
ポロシャツでそんなことされても様になって見えるんだから不思議だ。
様になって見えるからむかつく。
乱暴に、けれど突き離すようにならない程度に振りほどく。
あんまり冷たくするとあからさまに落ち込んで、こっちが気を使うのだ。

「いいから、ほんと。ガキ扱いするな」
「…駄目かい?」
「駄目じゃなくてだな、男二人で手を繋いでるのなんかおかしいからそう言ってるんだ。まぁ、気を使ってくれるのはありがたいけどさ」

ひょこひょこと足を上げて歩き続ければ、すぐにドアの目の前にくる。
少し話をしているだけですぐに着いてしまう程度には距離は短い。
心配されるような長距離を歩くわけじゃないのだから、もうちょっと落ち着いて物事を考えて欲しい。
できれば常識的に。

「わかった。ならば、今度からは私がゴミ出しをしよう」
「ほんとかぁ?」
「他の事は君がいつもやってくれるじゃないか、私も少しは家事をした方がいいかと思っていたんだ」

少しだけ見上げるような位置の時臣の顔を見ると、目元が弧を描いて笑っている。
その顔が、なんだか俺の知っている葵さんと結婚した時臣ではなくて、慕っていたただの時臣の顔をしていて、急に気恥ずかしくなる。
なんだよお前ばっかり、昔みたいな顔をして。
俺は少しも昔のようには笑えなくなっているというのに。
その文句は残念ながら口の中、声帯すらも通らずに腹の中で燻ぶった。
蟲を受け入れると決めたのは自分だ、それは誰のせいでもない。
誰を責める事も出来ない。

「…分別は、俺がしておくからな」

吐き捨てるのと同時にドアを開けて、逃げるように部屋へと入る。
いや、本当だったら家事を何から何までやっている状況がおかしいのだ。
少しぐらいは時臣にやらせた方がいい。
洗濯と料理は絶対にさせられないから、それ以外の事ぐらいはやってもらって当然だ。
ぽんぽんと浮かんでくるそれは、どれも恥ずかしさを押し込めるためのいいわけだとわかっている。
追いかけてくる時臣に見られる前に、顔の火照りをなんとかしよう。
それがまずは先決だ。
リビングを通り抜け、ようやく朝食の準備を始める。
朝からがっつりは食べられないし、俺はまだ流動食しか受け付けられない。
最近はすりつぶせば食べれる物も増えたが、調子に乗るとすぐに消化不良を起こすのでまだまだ先は長そうだ。
なので、必然的に時臣の分だけをつくるようになってしまう。
自分で作らせないのはガスコンロの使い方がわからないからだ。
ガスコンロだけじゃなくて電子レンジやトースターはもちろんわからない。
下手な事されて火事にされても大変なので、慣れている俺がやっているのだけど。
少しぐらい使い方を教えてやったほうがいいだろう。
ついつい忘れてしまうのだが、俺と時臣が一緒に暮らしている理由はそれだ。
手を洗い、フライパンを温めている間に時臣を呼ぶ。

「おい、時臣」
「なんだい」
「まずは手を洗え、今日はトースターの使い方を説明する」
「それは一体どういう呪術で」
「何度同じギャグを使う気だ!」

時臣をシンクへと押しこんで手を洗わせる。
その間も言ってることがわからないって顔をするから、きっと時臣は素で言っているんだろうけどそんなの知るものか。
魔術行使をしないって言ってるし、そもそも俺はにわか仕込みのものしかできないのだから嫌みか。
手を洗いはじめた時臣を横目に、フライパンに卵を落として火を止める。
どうせ時間がかかるだろうから、蓋をしておけば火が通るだろう。
食パンを取り出し始めれば、ようやく時臣の準備が整ったようだ。

「よし、来たな」
「ちなみに、トースターとはどれなんだい?」
「あぁ…やっぱりそこから説明しないといけないんだな」

溜息を押し込んで口を結ぶ。
一つ一つ、赤子に教えるように噛み砕かないといけない。
こんなことでまさかライターの文章能力が役に立つなんて誰が思っただろうか。
カウンターに置かれた赤色のデザインのトースターを引き寄せて説明を始める。

「これがトースター。いつもお前が食べてるトーストはこれで焼いてる」
「なるほど、トーストを作るからトースターなのだね」
「いや、なんていうか…ともかくゲシュタルト崩壊しそうだからその名前の所は置いておけよ…。今日はこれを使ってお前にはトーストを作ってもらいます」
「トーストを作るだけでいいのかい?」
「残念ながらそれ以外の事はこれには出来ないからな」

がさがさ、特売の一袋98円6枚切りのごく一般的な食パンを取り出して皿の上へ。
酷く残念なことに俺はまだ固形物は食べられないので時臣の分だけ。
おかゆの米つぶが食べられるようになったけど、やっぱりまだ駄目そうだ。

「トーストなら任せてくれるかい、私の得意料理だ」
「トーストは料理にはいらねーよ。ていうか、お前に料理が出来ること自体初耳だ」
「念の為気を付けてくれたまえ」
「は?」

時臣はぱちりと指を鳴らし、瞬間こいつ魔術行使しやがったと思うが時すでに遅しとはまさにこの事で。
音と同時に火があがり、食パンの上を舐めるように動きまわる。
焦げるんじゃないかと思ったが、おいまさかこれで得意料理なんていうつもりか。
火が消えると、そこには可愛らしい兎の焼き目をつけたパンがそこにはあった。

「なんだよこれ…」

思わず、魔術は使うなと言うよりは呆れた声が出る。
だって兎だぞ、兎と時臣なんてどうやっても結びつかないしこの可愛いキャラクターも結びつかない。
なんだよほんとこれ。
箱入りのお坊ちゃんのような、箱入りの魔術師が自信満々に言う。
おっさんがやっても全然微笑ましくもなんともないからやめてくれ。

「こちらの方が早い。それに可愛らしいだろう?」
「こういう可愛いの似合わない」
「そうかい?君は嬉しくないのか?」
「お前は俺をどういうやつだと思っているんだ!」
「凛は喜んでくれたんだが」
「そりゃ、凛ちゃんは、女の子だから…」

ふいに飛び出した言葉に返事が詰まる。
異例の聖杯戦争の結果だが、それでも彼女達は決して同じ屋根の下で暮らす事は出来なかった。
俺は目的を果たすこともできなかったのに、のうのうと暮らしている。
酷い話だ。
ただ、救いがあるのは桜ちゃんに表情が戻ってきたこと。
それすらも俺にとっての救いであって、桜ちゃんにとっての救いであるかはわからないが。
桜ちゃんの名前が時臣から出なかった事も、なおさら俺の心を打ちのめした。
お前にとってはもう、娘は凛ちゃんだけなのか。
しかし、そういうことを考えているとまるで心を読んだようなタイミング時臣は返事をするのだから性質が悪い。

「桜は兎よりも猫が好きだったみたいだからね」
「…そ、うかよ…」

それでも、忘れたわけではないのだ。
娘であった桜ちゃんを。
それだけで、救われた気分になってしまうのだから、俺も独りよがりが過ぎる。

「君が固形物が食べられるようになったら猫を描いてあげよう」
「いらねぇって言ってんだろ!あっ、というか、お前が焼いちまったらトースター使わないだろうが!どうすんだ!」
「もう1枚焼くかい?私は1枚で十分なんだが」
「俺がまだ食えないってわかった上でそれを言うのか」
「冗談だよ」
「お前の冗談は性質が悪い」

少し自分よりも上に存在する顔を睨みつけてやれば、なぜだか笑われた。
その笑った顔が、俺の最近知っている遠坂の当主である魔術師、遠坂時臣ではなくて、まだ俺が幼いころに慕っていた時臣の顔をしていたから、不覚にも、気が緩んだ。
ざわざわと蟲がざわめく気配に、感情の昂りを認識する。
けれどなぜ、自分がそうなっているかはまるで理解できなかった。


(俺は、お前が、嫌いなのに)





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