本棚1

□不思議の国で化け猫が笑う
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がん、と重苦しい割にはかん高い音がして、一拍置いてどさと崩れる音がする。
彼に言わせれば物が倒れただけだとでも言いそうだけど、倒れたのはうず高く積まれた段ボールの塔でもなく、ましてや棚に詰まっていたぬいぐるみでもない。
恩田優という気まぐれな猫によって動く物から動かない物にされてしまった哀れな人の末路なのだから、常軌を逸脱してあまりある状況だ。
しかし、そういう倫理も常識も一般的な意見も何もかもが壊れて崩れている今の世界ではそれは一種の普通でもある。
ただしそれもまた、我々の世界でのみ通用するという点ではそれ以外の多数からすればやはり逸脱しているのだろう。

「うるたんタオルー」
「ハンカチで我慢してください」「もー、おれが汚すのはいつもなんだから。それぐらいちゃんと用意出来ないと殺しちゃうぞー」

拾われて、そうして仕えることになった新しい上司は、さらりと言って差し出したハンカチを掴んだ。
恩田さんが殺すという言葉を使う時は本気でそう思っていない時だ。
本当に殺してしまおうと思う時、恩田さんは言葉を言うよりも先に行動に移す。
だから、すでに過去動かぬ物へとされてしまった者は恩田さんのグッドモーニングの声だけを聞いて絶命するのだ。
中華鍋、もとい銃と手の平に飛びはねた赤を拭いながらさきほど倒れた物を恩田さんはしゃがみこんでマジマジと見る。
それは死体を見るというよりも、やはり売り物を見る眼。
けれど、動くものに向けるよりもずっと好意的な目。「青いお目目の異人さんだねぇ目は臓器よりもコレクター向きだにゃぁ」
「もうしばらくお待ちください。臓器屋がそろそろ着きます」
「あれ、今日は帰っちゃだめ?」

瞼を開き、物の状態を品定めするようにしていた恩田さんが振り仰ぐ。
サングラスをかけていて目元は見えないけれど、口元がぽかりとあいてまるで子供の様な反応をしているのがわかる。
決して子供がしていいことをやっている人ではないのだけど。
むしろ、子供の様な無邪気さを持って子供がしてはいけないことをしているのか。
普段であれば恩田さん手ずからの仕事が終われば後は任せるのが流れなのだが、今日は少し事情が違う。

「新しい臓器屋なので、仕事の様子を見て信用に足るか、判断してください」「えぇーもう帰りたいにゃー帰ってわんこもふもふしたいワン」

いつのまに立ちあがったのか、ぴょこぴょこ、ふらふらと部屋を物色しながら軽快に返事をする恩田さんはそういった上司的な判断や事務処理を厭う傾向がある。
快楽主義の気がある上司は楽しい事が最優性だ。
少しでも機嫌を損ねる様な事があれば容赦なく眉間に穴が空く。
その基準すら明確ではないので、この人に策謀の類は意味をなさない。
だからこそ、私は未だにこの人に拾われた理由を見いだせずにいる。
そして同時に、恩田優という上司が面白そうだったという理由を告げるのであればそうなのだろうと納得もする。
時計を眺めて、もう少し早めに来るように伝えるべきだったと小さくため息を吐く。「この後は予定がありませんので、終わってから存分にしてください」
「やだー、すぐに帰ってもふもふしたいの。ね?」

手を後ろで組んで、まるで少女がやるように首を傾げていうが成人男性がしたところで可愛くは無い。
彼は女性的でも、中性的でもないから、かけらも可愛げは見つからない。
部下や臓器屋であれば、その楽しげだけど何を考えているかわからない笑みに気圧されてしまうだろうが、私には通じない事をこの人はわかってやっている。
単純に慣れだと言えばいいのかもしれないが、他人と比べて私の中での認識が違うことが大きい。
一度死んだ身なのだから、二度目の銃口の黒はさして怖いものではないと、そう思うのだ。
私という物の扱いは、すでに上司に委ねられている。もう一度時計に目を向けると、指示をした時間まであと10分もある。

「それ以外の事でしたらなんでも致しますので、10分待って下さい」
「なんでも?言ったね?」
「…はい」

なんでもは流石に言い過ぎだったかもしれないが、すでに言葉は吐き出された後。
それに、恩田さんを動かすにはそれぐらいは口に出さないと話を聞いてくれないだろう。
命ごいをした者が言った、なんでも、という言葉に対して恩田さんが言ったのは指切りだったのだから多少の痛みは覚悟した方がいいかもしれない。
指切りというよりも、あの行為は指詰めの方が正しいかもしれない。
遊び終わってまだ昂揚が残っている状態では、なおさら肉体的代償の確率は高くなる。わざとらしく立てた人差し指を口元にあてて、くるくると回るように恩田さんが思考する。

「そうだにゃぁ…うるたんがちゅーしてくれたらいいよ?」

ね、と子供のおねだりのように言って、彼が笑う。
けれど、それは予想していたどれにも当てはまらず、意図を図ることなど到底不可能な事のように思えた。
くるくる回るそのままに、腕を伸ばされて捕えられる。
首に腕を回されると、身長差があるのも手伝って回された首に重みがかかる。
背を丸めるように屈めば、さらに近くなる距離に、主人が笑う。
完全に玩具にされている気配にまた溜息が漏れそうになったが、この至近距離でするのは躊躇った。

「キスなら女の方がいいのでは?」
「うーん、おんなのこのちゅーも柔らかいけどにゃ、俺はうるたんからするちゅーが欲しいの」嗚呼、この人は猫は猫でもチェシャーキャットがよく似合う人だと、ぼんやり考えながら色眼鏡の奥の目から感情を読み取ろうとするが、やはりそれは無意味でしかない。
顔を寄せられて、目元にまっすぐ走る傷をぞろりと舐められる。
これもまた随分昔に塞がった傷なので触られた所で痛くもないのだけど、おうとつをなぞる舌は獲物をいたぶる猫そのもの。
今度は溜息を隠すことなく吐いて、問いかける。

「それは、お願いですか?それとも命令ですか?」

舌をわずかに覗かせたままにして動きを止めた恩田さんは、右斜め上を見てから口元を歪ませる。
それは、舌舐めずりにも見えた。

「もちろん、お願いだにょろ?」

もう一度、溜息を吐いて顔を寄せる。弧を描く口元へと寄せてやれば、私が触れるよりも先に押し付けられた。
彼の言うお願いと命令は、意味合いとしては全く同じなのだ。
お願いだなんて柔らかく言っていても、私に選択肢は最初からイエスしか存在しない。
首に巻きついた腕に力が込められて、零距離で舌で唇を舐められる。
割れ目を押し入るように舌が軟体動物のように動く。

「うるたん、口、あけて?」

それすらも仕方ない、と口を開いて逆にその舌ごと咥えこんで逆に押し入る。
僅かに腕の力が緩んだので腰を抱えれば、コートの下の身体が見た目以上にほっそりしているのがよくわかる。
食べ物にも気分が反映されるとはいえ、もう少し健康的になるような食事を促すべきかもしれない。鼻に抜ける様な恩田さんの声に、奪った主導権を返すために距離を取る。

「ふ、にゃ…ぁ…うるたんちゅーうますぎるにゃぁ…」

若干呂律の回らない言葉を聞きながら、時計へと目をやるとあと4分。
そろそろ来ないとさすがに仕事が遅い奴だと言う判断は否めない。
距離を開いて未だに唾液で濡れる口元を指で拭って、時間を告げる。

「あと4分です」
「うるたんさ、もうちょっと余韻を楽しもうよー」
「商品の傍で、ですか」
「在庫倉庫での秘密の恋みたいで燃えるにゃぁ?」

恋、という単語に一瞬なんと返すべきか迷ったタイミングで、ドアをノックする音がする。
時計をみれば指定の時間ぴったり。
時間を守る奴ではあるだろうが、それで仕事ができるかは別だろう。それでも結局は、上司である恩田さんの判断が全てなので、私の判断は関係ないのだ。

「さーて、お仕事出来るいい子かにゃー」

ドアにひょこひょこと近づき、臓器屋を迎えにいく恩田さんはすでにいつもの恩田優に戻っている。
左手でドアを開けて、決まり文句のグッドモーニングに、新しい臓器屋は早速お気に召さなかった事を悟る。
右手にはすでに黒い闇が握られているからだ。
携帯を取り出し、一番近くに根城を構える臓器屋に電話をする。

「十分前行動が基本だって、ママに教わらなかったのかにゃ?」

がん、がんと、重苦しくかん高い音がする。
そして、一拍置いてどさと物が倒れる音。
そういえば、ほんの20分前に似た様な音を聞いたな。「あー…うるたん、ハンカチちょうだい?」



◆不思議の国で化け猫が笑う◆


全て、貴方の仰る通り。









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