本棚1

□憂悶聖女
1ページ/3ページ



3.憂悶聖女


足元に絡む草をなぎ倒しながら空を見上げると、青々と繁った枝の間から青空は僅かに見えるばかり。
日差しに焼かれて蒸発した水分のせいか蒸す様な暑さが身を焦がし、滴る汗がまた頬を流れていくのがわかった。
かれこれ、一時間ほど森をさ迷っているのにまるで先が見えない。
少女のような顔をしていたのにやはり中身は何百も生きる魔女であったのだ。
道を指し示して場所まで教えてくれたのだけど、たどり着き方までは料金外であったということだろう。
魔女に教えを請うということは、対価を差し出してそれに見合うものをもらうということだ。
確かに、魔女にとって金貨はあまり重要なものではないのだろう。
けれども、ぼくに差し出せるものなどそれぐらいしかなかった。


僕がいたのは三方を山に囲まれた小さな国で、いつ他国に攻めこまれてもおかしくないぐらい弱い国だった。
それでも、その国が平和で過ごせているのは国を囲む山のお陰だ。
山のおかげで攻め込みづらいので国は守られていたが、それは同時に移動が困難でもあった。
けれど、国の人口は急激に増えることもなければ急激に減ることもなく一定の均衡を保っていた。
ぼくはその国の王と呼べる人物の息子であったのだけど、いわゆる妾の子というやつだ。
あまりいい公言できるような存在ではないために、城の片隅に母と幽閉されるように住まわされていた。
そして、国の均衡が崩れ始めたのは、夏の暑い盛りの頃だったと思う。
急に山に野犬が増えた。元々、動物の生息は多く。
野犬も珍しいものではないのだけど、目に見えて人里近くに下りて来るのがみてわかるようになり、月の明るい夜は遠吠えがよく聞こえた。
極力山へは入らないようにというが、山を越えなければ物流が滞る。
どうやっても山には入らなければならないのだけど、するとやはり何人もの人が襲われて帰ってきた。
様子を見て来て欲しいと言われて、山の様子を見に行かされた。
そんなもの、番兵にでもやらせればいい事をぼくにさせたのはあわよくば僕と言う存在が消えてしまえばいいと思ったのだろう。
どうやっても、面倒な存在でしかないのだから。
案の定というべきか、ぼくも野犬に咬まれたのだが、ぼくの襲われた時は他のものに聞いた様子が明らかに違っていた。
他の者が襲われた時は複数の群れに追い立てられたらしいのだが、ぼくがあったのはたった一匹だった。
暗闇にランプの明かりを反射して光る目は赤く、明らかに普通とは違うのがわかりすぐに身を引いたのだけどそれよりもずっと早く犬は襲い噛みついてきた。
しかも、わざわざ高く飛躍して首筋に。
噛みついただけでそれはすぐに身を翻して闇に消えていった。
なんとかほうほうの体で帰りランプの灯る屋敷の中へ入ると女中が小さくひぃと悲鳴をあげて後ずさった。
そんなに酷い有様かと思うが、駆け寄ってきた母が驚きに目を見開いて髪はどうしたのだと聞いてきた。
確かに山を走ったから木の枝や葉がついているかもしれないが…と答えるが、そうじゃないどうしたんだその色と、手鏡を掲げられたので大人しく覗きこむと同じように呆然とその鏡の中を見つめてしまう。
人の髪ではありえない、それは空色をしていた。
それと一緒に黒かった目も金色に変っていて愕然とする。
あれはただの野犬ではなかったのだ。
古くから悪魔は犬ともう一つの動物の羽や頭や尻尾を携えてこちらの世界を跋扈するという。
ことの顛末を父へと話すと、お前は呪われたのだ、元に戻る術を探して来いと馬と持てるだけの金貨を持たせて一人だけ知っているという魔女の元への生き方を教えられた。
母の心配はするなと言ったが、それもどこまで信用できるかわからない。
探してこいと言って、様々な物を与えてくれるようすは息子を心配する父親に見えなくもないが、実際の所はていの良い厄介払いにほかならない。
外見の変容しか今のところ見えないのだけどこれが普通の医者に直せるとはぼく自身も思っていなかったので、大人しくいうことをきくことにした。
ただでさえ妾で肩身の狭い母、しかもその息子は奇妙な姿になってしまったなど、これ以上母を苦しめることはさすがにぼくも心苦しいので、治っても治らなくてももう戻る気はなかった。

魔女が住む場所は樹海の奥で、樹海と言う段階で生きて帰ってこさせる気がなく本当の事とは信じきれなかったが、手がかりもここしかないうえに、樹海のふもとで話を聞けばそういう伝承は確かにあった。
多少は血をわけた息子に対して思う事でもあったのだろうか。
それは愛情というよりも後ろめたさからなのだろうけれど、それしかあてがないのだから仕方ない。
そうしてやっと古城を見つけた頃は、国をでてから1年が経っていた。

魔女というから最初は老婆がでてくるのかと思ったが、古城を訪ねて迎えてくれたのは黒髪を湛えた少女だった。
幼いその姿に最初は娘か何か、ともかく魔女であるとはとても思えなかった。
黒髪にロングスカートでどこかに貴族の娘のような井出達は洗練されていて、見た目に会った鈴の鳴るような可愛い声をしていたが、口調も話し方もどこか違和感を感じる。
それはやはり、見た目と年齢が異なる事を意味しているように思えた。
年上として扱うべきか、年下として扱うべきかあぐねいていると彼女はにこにこと笑って「沙子」と名前を呼べば好きにすればいいと言った。
魔女は、沙子はぼくの話を聞くと黒目がちの目を伏せて何かわかったように頷きながらお茶を啜った。
彼女が手ずから淹れてくれたのはアールグレイ。
お茶菓子にと出されたのはとても可愛らしいデザインをしたクッキーなのだけど、わずかに開けたままだったドアの隙間からみた液体につけられた奇妙なもの、おそらくはホルマリンにつけられた、元は生物のあるのを見てしまうと、食べる気は失せた。
何が入っているかわからないのが恐ろしい。
しっかりと見抜かれたのか、なにもはいってないわよ、と彼女に言われたけれど、腹が好いてないからだと辞退した。
実際、この一年間食品を食べることをあまり好まなくなった。
食べられなくはないのだけど、それよりも液体の方が好ましく感じた。中でも赤ワインとトマトジュースがよかった。
けれども、それらを飲んでも満ち足りることはなくむしろあと一歩届かない様なもどかしさがあった。
それも彼女に伝えるとようやく彼女は口を開いた。
『貴方、名前をなんとかしら?』
『辰巳といいます』
『辰巳…貴方が見立てた通りね。貴方が噛まれたのは犬ではないわ』
『では…』
『貴方が噛まれたのは、そうね…下級の悪魔のそのさらに眷属にあたるものだけど、獣を媒体にして子供を増やしていく、そういうものがいるの。
言うなれば、ヴァンピールや狼男、そういうものに性質は近い。
けれども彼らのように実態を持てないから生き物に寄生して生きる。そういうもの』
『それで、どうすれば治る?魔女の君なら出来るだろう?』
『あら、随分と万能な存在になったものね。そうね、大抵の事は何でもできるわ。けどね、これはどうにもならないのよ』
『治らないのか』
『見た目を治すだけならばすぐにできるわ。けど、そのままではあなた、人を襲うわよ?』
『は…?』
思わず動きが止まった。
ゆっくりと喉を嚥下していくダージリンが思わず気管に詰まりそうになる。
『多分、貴方が噛まれたのはその中でも亜種。ワーウルフよりもヴァンピールの方が性質が強いの、だから赤い色をしたものが好ましいと感じる。それは血液を欲するという事』
『化け物になったということか』
『そういう名前を持たない様なものはずっと本能的な自然現象に近い。こちらの影響を受けないのにあちらからの影響は受ける。理不尽よね、でも仕方ないの。それにそんなに悲観することもないと思うわ?不老かどうかはわからないけれど貴方は不死のようだし』
『?どういうことだ…』
『アコニチンって知ってるかしら?』
聞き覚えのない単語に眉根を寄せる。
彼女の話は脈絡があるようなないような、振り回されている様な、そんな感覚だった。
『ジテルペン系アルカロイドのアコニチン…って言ってもあまり馴染みがあるものでもないし、今はまだ解明されてないかしらね』
『話の先が見えないのだが?』
『せっかちな男は嫌われるわ、覚えておいて損はないわよ。あなたの方のカップにはね、トリカブトの毒を塗っておいたの』
『な、…』
『有名よね、トリカブトには毒がある。ごめんなさいね、少しだけためさせてもらったの』
『さすが…魔女なだけはある。それで、君の見立ては?』
無邪気とも取れる笑顔をした妙齢の魔女は少女の声で笑う。
そのあどけない容姿にすっかり油断してしまったのだけど、相手は取引を仕掛けて来る狡猾な魔女なのだ。
くすくすと彼女が喉を震わせて笑う。こちらの虚勢も見抜かれているのだろう。
『そんなに怒らないで、ちょっとした実験よ』
『君の実験で殺されてはたまったものではないのだがね』
『でも、死ななかったから。あなたはちょっとした薬じゃもう死ねない身体なのね。銀や十字架は効くのかしら』
『試してみるかい?』
『後片づけが面倒だからやらないわ。貴方を治す事はできないのだけど、これからの生き方の方針を提示することはできるけれど、聞く?』
『お聞かせ願いたいな』
『素直な人は好きよ。一つは、私の下で使用人をすること。二つは、諦めて対処方法もわからないままさ迷って生きる』
『それだと選択肢はほぼ一つなんだが』
『三つ目は、もう1人の魔女に会いに行く事』
もう振り回されまいと無表情を装っていたのに、彼女の三つ目のそれに眉がぴくりと動く。
しまったと思ってもすでに遅い。案の定、顔をあげれば目を細めて笑う彼女がいて、もう何をしても怒られる事はないだろうと当てつけのように溜息をつく。彼女からすれば、それは小さな子供が拗ねているのときっと大差ないのだ。
『できれば、三つ目を詳しく』




次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ