本棚1

□靴はき猫
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2.靴はき猫


がさがさと身の丈に近い草をかき分けて先を進む。
青く茂る草木は見事に視界を狭めて方角を見失わせている。
さきほどまで胸を占めていた確信は徐々に疑惑へと変わって、今ではすっかりあきらめしかない
。確信があった帰り道はどうやら残念な事に帰り道ではなかったようで、見知らぬ土地への入り口だった。
親の都合で森の中の小さな集落へ引っ越してきたのは、ほんの数時間前のことで。
その数時間前は引っ越しの準備に追われる両親の姿を見ていたのに、どうして今はおもかげすらない背高のっぽの樹木たちしか見えないのだろう。
はぁと小さくため息を吐く。
完全に迷ってしまった。

「はぁ…」

誰に聞かせるわけでもなく溜息が零れる。
嬉しそうに荷物を運ぶ両親にいらだって、逃げ出すように森の中に入ったけれど。
こんなことになるのならば大人しくふてくされてでも家にいればよかった。
そもそもこんなに森が深いとは思わなかったんだ。
方角だって見失わずにすぐに帰れると思ったのに、おれは方向音痴なわけでもないし、どうってことないと思ったんだ。
今更そんな事を考えても無駄なのはわかっているのだけど、思考は止まらない。
こうやって、後からこうすればよかったと悔いるのがまだまだ子供っぽいのだと自分でもわかっているのだけど、理解することと実際にそうやって考えられるかはまた別だ。
ぐるぐると考え出すといらだちがまたぶり返して、それは徐々に焦りへと変わる。
時折からすがぎゃあぎゃあとわめく声がまた不安を煽った。
まるで森に入ったことを怒るようなその耳障りな鳴き声に反射的に耳を覆う。
ばたばたと激しい羽音をもなぜだかとても大きく聞こえた。
目に見えてあたりは夕暮れを迎え、下から徐々に明かりが消えていく。
足下から飲み込まれるような暗がりにぞくりと悪寒が走って夢中で足を動かして黒に飲み込まれないようにとかける。
得体の知れない何かに追いかけられるような感覚。
お化けや幽霊を信じている訳じゃないけれど、視界を奪われる黒はとても本能的な恐怖を呼び起こしてきた。
だめだ、あれに、捕まってはいけない。

「はっ…はっ…っ」

がさがさと高さもまちまちな草むらをかき分けてすすむ。鋭利な尖った葉がむき出しの足に擦り傷と切り傷をつくり、それは腕も同じだろう。
頬をひっかけた小枝に皮膚をひっかかれてきっとミミズ腫れができている。
見えないのに居る、追いかけられる、それはゲーテの魔王を彷彿とさせた。
どんなに助けを呼んでも信じてもらえず、そのまま死んでしまう。
恐ろしいイメージが浮かび、それは黒々と不安の雲を呼び起こさせてさらに足を急がせた。
そうするとさらに草を分ける音が大きくなり、それに驚いたカラスがまた忙しく鳴いて羽ばたき、それがまた怖くてたまらなくなった。
どこにいけばいいのか、もうどちらに向かっているのかわからない、ただひたすらに走って走った。
足がもつれて僅かに呼吸が覚束なくて肺がきしむ。けれど、立ち止まってはいけない気がした。止まったら、そこでもう動けなくなるそんな予感。
ドンドン上がる息に心臓もドキドキとして視野も徐々に前しか見えなくなる。

「は、っ…ッ!」

瞬間、急に足元を掴むように絡みついていた草がなくなりバランスを崩した。
走り続けるうちに森のぽっかり開けた広場の様な場所にでたようで、高い森の押し迫る様な圧迫感から解放されたと安心したのと同時に盛大に顔面から転ぶ。
手を突く事も間に合わずにびたりと盛大に身体を打ち付けたけれど、その場所は芝が広がっていたので痛みはあまりなかった。
少し口にはいった泥をはき出してあたりを見回すと、青々と広がる芝は森の中とは思えないほどに手入れが行き届いている。
森との境界がはっきりとわかるぐらい、整然としたそこは小さな庭のような風情をしていた。
森を箱に見立てた、まるで箱庭のようだ。
花壇もあれば、ちいさな物置小屋もある。
けれど、一番目を引いたのは高くそびえる塔だった。




■塔の上の知らない誰か■




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