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□少し前
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 五月の薄い青の空を仰ぎ、テリーはその四肢を思い切り伸ばした。木曜日の昼下がり、美波理公園に人影は無い。いつもならあの豚小屋と見紛うばかりの親友の顔を模した住いから、耳に心地良い騒音が鳴り響いていると言うのに、今辺りを包み込んでいるのは朗らかな春の陽気と頬を掠める程度の柔らかな風。遥か上空をチチチと鳥が一羽飛んで行く。
 テリーはベンチにその身を預け、カリカリと缶珈琲のプルトップを爪先で弾いた。この風景に馴染むように白の上下スーツではなく洗い晒しのジーンズと赤のTシャツを身に纏っているテリーは一見して屈強な超人には見えない。これがもしあの仮面の貴公子だったなら、ここまで群衆に溶け込むことは出来ないだろう。額の米マークが無ければテリーは少し体格の良い程度の青年だった。テリーは、そして年頃の青年らしく、今日幾度目かの溜息を吐く。
「……くそ」
 漏れた声を、スニーカーの踵で押し潰す。予てから付き合いのある翔野ナツコは仕事で忙しいらしく、芸能人のスキャンダルを追い駆けて沖縄に飛んでいる。未だ良い友人の枠を脱していない自分達は手を繋ぐのもやっとだ。キン肉マンに純情だと揶揄された事もあったが、テリーは確かに自分の感情を表現する事が下手だった。それは身の内に嵐のような衝動を持っているからこそ、適当な言葉で言い表すことが出来ないのだ。だからと言って、どう見ても自分以上に不器用な堅物の男に笑われる筋合いは無いと、テリーは唇を尖らせる。
 その彼にも、今日は会えないのだろうか。
 元々約束を結んでいた訳ではない、彼とて日本を守るスーパーヒーローなのだ。けれど、淡い期待を確かに抱いてテリーは此処に足を運んでしまった。あの傾いた扉を開けば、その胸で迎えてくれるとさえ思っていた。
 テリーは、話がしたかった。
 万民を守る為のヒーローであり続けることは、時に、重荷となって彼を苦しめた。最も当初はこんなことに悩むことは無かった。決められた枠組の中で一定の正義を保つことは実に容易い。正義を商売と割り切ることで自分の在処を明らかにし、客観的に物事を計れていたように思う。テリーは未だ若いのだ。
 言ってしまえば、テリーは、そんなに強くはない。類稀な肉体や力を持っている訳でもなく、尊敬するロビンマスクのように徹底した正義を貫くことも出来ない。
 けれど、目の前で、遠い日に追い駆けたヒーローの理想を、その勇姿を見せ付けられたのだ。容赦の無い現実に諦めかけていた全てを、彼は持っていた。躓いていた自分に、心に愛があれば良いと、そう手を差し延べられたように、思う。
「…キン肉マン」
 投げ出していた足を両腕に抱えて、膝頭に頬を押付けて、項垂れる。
 寂しいのだろうか。
 彼ならば、お前はよくやったと頭を撫でてくれるとでも?そんなこと、求めている訳では無い。寧ろ彼と居る時の自分は、彼の保護者のような気持ちで彼と接している。彼のお目付役である眼鏡の少年ミートに「王子の奥さんみたいだ」なんて、言われたこともある。
「誰があんな奴に嫁ぐものか…」
 過去のやりとりに文句を言ってみても始まらない。
 ただ、温もりが恋しいのだ。あの独特のガーリック臭も、鋼のような肉体に力任せに羽交い絞めにされるのも、嫌いじゃない。
「会いに来たのに…」
 委員会の野暮用を済ませ空いた時間を彼に宛がっただけ…と言い訳を繰り返しても、現状を見れば、それは誤魔化し様がない。一目でも良いからとテリーは背を丸め、ジーンズの生地に軽く歯を立てる。
 嫌いじゃないから、なんなんだ。
 嫌いじゃないなら、きっと、好きなのだ。
 彼のことが。
「…お、俺は何を考えているんだ!」
 テリーは思考を強制終了する。自らの声に弾けたように顔を上げ、誰も見ていないというのに疑心暗鬼に周囲を窺うと、発熱したように赤くなった頬を両の手で叩いた。心臓が暴れているような気がする。混沌とした感情に無理に名前を当て嵌めることはないと、ふるふると頭を振って、やがて彼は芯が抜けたようにベンチに沈黙した。
 空は徐々に西へと傾いて行く。緩やかに夕暮へと。赤々と冴え渡る前に一瞬色を失った午後四時の田園調布の空の下に似つかわしくない金色の髪は、小麦のようにサワサワと揺れた。
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