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□そのまっくらでおおきなものを
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 青の上に月が孤立している。寒々しい程に冴え渡る傷痕の形を模した三日月が、煩わしくさえあった。掌を窓に這わせ、沈黙の背を丸める。負い兼ねた物が重々しく圧し掛かるのだ。男は、押し殺すように息を吐いた。
 夕暮に、少年は言った。
 師の指先に唇を寄せながら、震える声で、細く、しかし、確かに。
 核心を突きながら、容赦も無く。
「…」
 男は眼差しを険しくする。後方で泣き疲れやがて昏倒した愛弟子が、寝返りを打つ。剥き出しの肩が痛々しく夜陰に紛れたその寝顔はやはり、幼かった。しかし、彼を幼少の頃から知っている彼にとっては、それは見知らぬ顔でもあった。精悍さを増してきたと思う。二の腕等は既に一回りも二回りも己よりも大きく太いのだ。しかし、根底は、欲する物を前にして声を荒げて叫ぶ事も出来ない、我侭の一つも許されぬまま、大人になる事を余儀無くされた憐れな、悲しい、強い、子供。その子供が、真摯な目で、欲望を語った。
 一時の錯覚だと笑い飛ばすのは容易だが唯一の拠所で有る男に拒絶される事を最も恐れる少年にとってそれは絶望に等しかった。だからと言って甘受する事は出来ない。行先を塗り潰すからだ。
 身動きが取れなくなる。
「私は、もう」
 若くはないのだから。
 引き攣った笑みにも似ている、三日月は暗雲に飲まれた。千切れて行く雲の輪郭は虹色に弛みやがて黒に霧散していく。流れ落ちる月光の底で、声も無く足掻くしかない。
「好きです」
 と、彼は言った。いつもの通りに拳を合せていたその時に、傷付いた師の肌を慈しむように、憧憬と欲情で持って仰ぎ、内に痛む物のように見詰め、苦渋の末に吐した。呑み込み損ねたその瞬間の残像が未だ、彼の眼前に横たわる。
 明日、目覚めたら彼は、先ず何を見るのか、誰を探すのか。
 男は自らのコートを彼に掛けてやる。無意識にそれに顔を埋め、匂いを肺底に吸い込んだ彼は充足したように微笑んだ。戦士の休息に相応しい無防備な姿で、此処に安寧を求める。しかし、いつかは失われる腕を、永遠にしようと、その手を遂に伸ばしたのだ。
 振り払えなかった。
 それは予め失われる事が決められた、始まりである。
「…目覚めるなよ」
 馬鹿げたことを思う。
 彼が、全てなのだ。今、この瞬間でさえ、作られていく明日の世界には彼が必要なのだ。
「…ずっと、眠っていればいい」
 言葉が、途切れる。
 これ以上の先を、構築出来ない。
 これこそが、彼の望んだ結果なのか。
 再び、月の帯が垂れる。しかし、此処にはその虹の如き陽炎の一欠片も届きはしない。その背を丸め、愛弟子の眠るベッドの傍らの椅子に身を崩す。指と指を組み合せ、逃れるように顔を伏せる。およそ、祈りのように。
「嘘だよ、ジェイド」
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