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□幸福の空腹
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 大阪東京間、新幹線に揺られ通うのもそれはそれで良かったが、ふと思い立って領収書の類を並べてみたら私用を含めれば一月の大半が東京いう時もあり、これはもう思い切って安いアパートを借りてみるのも良い気分転換にもなるだろうと、懐事情と照らし合わせ首都圏から少し離れた、駅から徒歩30分と言う築20年を越える家を丸々一件借りてしまった。小さな庭も付いているという柔らかな木造建築二階建ての家は、しかし、此処を寝に帰る為だけの仮宿に決めていた俺にとっては馬鹿に広く、身を持て余した。大阪のマンションに比べれば無論雲泥の差なのだが―…色褪せた敷居を跨ぐ度に時間を体感出来るこの隠れ家的なこの場所が、俺は妙に気に入ってしまった。
 万太郎が大騒ぎして結局朝帰りになってしまった日曜日午前9時に、俺はその隠れ家へと眠る為に帰る。6月の第一週、梅雨前線が日本列島を横断している為か朝とは言え空気は重い。全体的に明度の低い空の下をとろとろと歩いて、端の少し欠けた鍵でドアを開く。改めて、広過ぎる部屋の、染みの多い天井を仰いで、俺は湿気を多分に含んだ畳の上に尻を着いて荷物を放るとゴロリと寝転がった。畳の伏目を爪の先で弾いたりしながら、格子の向こうから落ちてくる微かな光の靄を擽る。九畳のこの部屋には、古道具屋で購入したペンギンみたいな形の電気ポットとインスタント珈琲と砂糖と、文庫本が2、3冊。それから、疲弊した俺が有った。
 睡魔が瞼を下ろそうとする。しかし、意味もなく無駄な抵抗をしてそれを抉じ開けて、壁伝いに足の裏を這わせたり、小説のページを捲ったり、インスタント珈琲の原材料を読んでみたりする。
 贅沢な時間の使い方だと思う。日々、時間に追われるように生きている俺たちは、何かを意識する事を手放した途端、こんなにも自由で、そして孤独なのだ。
 曇り硝子の向こうにある青い影が気になって、ゴロゴロとそっちの方へと寝返りを打つ。僅かに鮮明となった輪郭線からそれが紫陽花だと、気付く。花弁の色が気紛れに藍から赤へと変わる、その不可思議な花は、桜とは異なった執念のような物を感じさせる。満開の季節が梅雨のせいなのか、枯れる時の、凄まじい姿のせいなのか。
「…なんだっけなぁ」
 パパが読んでいた本に書いてあった俳句を思い出そうとするのに、断片的にしか言葉が浮んでこない。
「紫陽花の、曇りて…なんだっけ、なぁ…」
 別に―…どうでもいいことだ。けれど、記憶の紐を束ねようとする意識の端からほつれていく。
 いよいよ睡魔に世界が歪んだ。
 手足が暖かく、少し寂しくなってくる。タオルケットを手探りに求めたが、此処から届く距離にはない。ならばもう諦めてしまおうと俺は上着を脱いでそれを腹の上に乗せると体を丸めた。呼吸の音が、遠くなる。雨の音が、俺に忍び込んでいた。

 おかしなことに、呼吸の音が俺のリズムとぶれている。

 それにやけに寝苦しい。俺の上着はこんなに重いはずはないし、それに脂臭い。俺は煙草を呑む趣向ではないから移り香とも思ったが、これは強烈過ぎる。不審に思って恐る恐ると瞼を開けば、目の前には鈍色の霧が立ち込めていた。それを何気無く掌に掬って、サラサラと落ちていくのを暫く見ている内に、霞んでいた視界がサッと晴れて、俺はサッと青くなって飛び起きた。
「ケ、ケビンッ!」
 その長い睫毛は呼気に震えている。俺は慌てて口を塞ぐ。しかし彼は深い眠りの底にあるのか眉間を険しくしながら重たそうに寝返りを打った。俺は飛び出しかけた心臓の上に手を置いて、深い溜息を吐く。いつ…彼はこの部屋にやってきたのだろう。喉の渇きを覚え、珈琲でも飲もうかと腰を浮かしかけた時に気付く。俺の上にタオルケットが掛けられていた。ケビンだろうか。らしくない。こんな風に、優しくされるのは慣れていない。お互いに不器用だから、余計に、意識した途端に上手く動けなくなってしまう。
「んだ、よ…もぅ」
 嬉しくない訳はなくて、だからこそ余計に腹が立つ。だから、そのタオルケットを殊更乱暴に自ら剥いで、でも、出来る限りに優しくケビンに掛けてやった。
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