遙葉書

□曼珠沙華
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『先生ーーーーーっ!!!』


気が付いた時には、あの人を呼ぶ彼女の叫声だけが、遠くに聞こえていた。


風に戦ぐは、深紅の曼珠沙華―――…




【曼珠沙華】



真っ白な思考の中、只ひたすらに九郎と刃を交えていた弁慶は、望美の絶叫が耳に届いた瞬間に、腹の奥を貫かれたかのような感覚に陥った。

“裏切り”と言う名の涜罪を犯し、自分自身訳が分からなくなっている矢先の事だった。

声のした方を、戦の間隙をぬって瞥見すると、目に入ったものは、焦げ掛けた地には鮮やか過ぎる程に紅く広がる血痕…

夥しい迄のその紅に、横たわるあの人の躯―――…


――センセイ…?――


息を吐き出さずに呟いた声は、戦の風に呑み込まれていった。

それから先は、目にも留まらぬ速さの出来事であった。

現に戻り、必死に無表情を取り繕い、九郎に平家の敗北を告げた事さえ、うろ覚えに脳裏に残っているだけだ。

気が付けば源氏軍の姿は消え、残ったものは敗走に逃げ惑う愚兵と、無慚にも横たわるあの人の躯。

どれ位の時が経ったのだろうか。

暫くの間呆然とその場に立ち尽くしていた弁慶は、背後からの声にビクっと身体を揺らして振り向いた。


「武蔵坊弁慶と見受けるが」

「…えぇ…そう、ですが、何か」


弁慶の間の抜けた応答に、怪訝な面持ちで豪傑そうな兵は用件を告げた。


「還内府殿は、只今陣にお戻りになられて休息を取っていらっしゃる故、某が参った。そなたに用件と言うのは、あの鬼の死体の処理に関してなのだが」

「鬼…」

「そうじゃ。鬼は元来死人と、古より伝わる。恥辱ながら、我々兵は、あの鬼が今にも動き出しそうでどうにも近づけん。そなたならば、平気であろう…?」


そう言って、にやりといやらしく笑った兵は、弁慶の身体を頭部から足先まで舐める様に見つめた。

不快感を感じて弁慶は一歩退いた。
その間も己の視線は兵を通り越して、リズヴァーンの姿を捉えている。

子供の頃、この容姿のせいで鬼子と蔑まれて来た…その苦々しい過去が、いまだ脳裏に焼きついて離れてはくれないのに、この愚かな兵によってその均衡も崩れつつあった。

普段は見せぬ冷酷な瞳で兵を一瞥すると、戦後幽かに遽しい中、弁慶はリズヴァーンの身体にゆっくりと近付いて行った。


彼との距離が短くなれば成る程、呼吸が荒くなっていく。

心臓は跳ね返り、彼の元へ辿り着いた時は、全身から汗が溢れ出し、柔らかな髪が頬に貼り付くのを感じていた。

一呼吸置くと、震える指で、弁慶はリズヴァーンの背中に触れた。

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