鏡花水月草子

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その日は、風の匂いが違うような気がした。



第二十一話「傷付いた龍」



一行は雑木林の中を進んでいた。
向かうは、丑寅の方角。奈落の邪気がそちらへ行ったのだと、殺生丸が犬夜叉一行から聞いたのだという。
森の中は日の光が差さず、とても暗かった。
地面には木の葉が無数に落ち、土地は湿ってぬかるんでいる。
蒼羅は進みながら、何かの強い妖気を感じ取っていた。
時に強まり、時には若干弱まるその不安定な妖気は、殺生丸が進む獣道の先から感じられるようだった。
殺生丸はそれを目指しているのだろうか。
だが。この妖気は奈落のものではない。蒼羅は漠然とそう思った。
奈落と対峙したわけでも、まして彼に近づいたわけでもないのだが、なんとなく違うような気がする。
邪気が強い妖怪の妖気は、気持ちが悪く不快だ。しかしこの妖気は…むしろ彼女にとって心地良かった。
時折ぴりぴりしたものを感じるけれど。

「…なんだろう」
「……殺生丸様、何か…おるのでしょうか?」

どうやら邪見も感じ取っていたらしく、主人に窺うような視線を送った。
蒼羅もちらりと覗き見てみる。
殺生丸はあまり機嫌が良くなさそうだった。
若干眉根を寄せ、眼を細めている。
何か嫌な匂いでも嗅ぎ取っているのだろうか。
しばらく進むと、前方に森が開けたような空間が見えてきた。
それと同時に、妖気が強まる。
……そこにいるのだ。

「……な…これは……!?」
「…………」

空間の入り口に立ち止まる殺生丸。その脇から前を覗いた邪見は、困惑の声を上げた。
現れたのは、周囲を大きな木々に囲まれた大きな湖。
枝や木の葉が天を覆いつくし、木漏れ日すら地表へろくに届かぬ程密集していた。
だが驚くべきは環境ではなく、湖の色だった。
湖の水面が一面…赤黒い血の色をしていたのである。

「な…何、これ…?」

りんが怯えたような声で呟く。
蒼羅はそのあまりの毒々しさに顔を歪めた。

「……殺生丸様、これは一体……?」
「………奈落の残した跡だ」

邪見の問いに、殺生丸は静かに答えた。

「な…奈落が残した跡…って、どういうことですか…?」

思わず、蒼羅も彼に問う。
殺生丸は視線を血の湖に向けながら口を開いた。

「……この血に、奴の瘴気と邪気が大量に残っている。ここにいる妖怪を体内に取り入れようとしたのだろう」
「………取り入れ“ようとした”…?」

それは…。

「妖怪は、まだここにいる…」
「!?」

殺生丸が言い終わるのと同時に、湖の中央にボコボコと気泡が表れ、潜んでいた生物が唸るような咆哮共に姿を現した。
それは、身体が白銀色の鱗に覆われた、紫がかった淡い青色の鬣を持つ巨大な龍であった。
龍は蒼く鋭い眼光を歪めて警戒心を露にし、鋭い牙を食いしばってこちらを睨めつけている。
立派な、本当に立派な美しい成龍だ。
だが、それの身体は全身が酷い傷だらけで、今尚出血の止まらぬ傷や化膿して膿んでしまっている傷とで余りにも痛々しい姿をしていた。
見ている方も息が詰まってしまいそうな程に。
全て奈落がやったのだ。
此れほどに強い妖気を持つ龍が、他の妖怪に容易に傷付けられるはずが無い。
奈落が丑寅の方角へ撤退する際、この強い龍を見つけその身を確保しようと目論んだのだろう。
しかしそれは失敗に終わった。
龍が、彼に攻撃で傷だらけになり…湖の水を紅に染めながらも、抗った事で。
再び己に敵意を向けるものが表れたと思ったのか、はたまた怒りで我を忘れているのか知れないが、龍は対峙する一行へ牙を剥き襲い掛かってきた。
殺生丸は空中へと飛翔し、蒼羅は邪見の首根っこを掴んで側面へ跳び回避する。
りんを背に乗せていた阿吽は咄嗟に後退し、数本後ろに生えていた木の陰に身を潜めた。
龍は強い妖気を感じ取ったのか、殺生丸へその怒りに満ちた視線を向けた。
同時に、それの口から灼熱の火球が凄まじい勢いで吐き出される。
殺生丸は火球を、知らぬ間に抜いていた闘鬼神で弾き、龍に剣圧を浴びせた。
反撃で更に深手を負い一瞬身体を強張らせたが、龍は尚も殺生丸へ向かっていく姿勢を変えようとはしない。
その姿を、蒼羅は少し離れた場所から窺っていた。
大抵の妖怪は、ある程度の彼の強さを見ると逃げ出していく。
逃げ出さない者がいるとしたら、何者かに命令されているか、そうとう鈍い者かのどちらかだろう。
だがこの龍はどうだ。力の差を、己の部の悪さを、感じ取っていないわけが無い。
それでも辛い身体に鞭を打って、立ち向かっていくのは…何か理由があるからではないだろうか。
少なくとも蒼羅には…その経験が、ある。
だからなんとなく解るような気がするのだ。
蒼羅は龍の同行を観察し始めた。
きっと何かがある。それを、龍が止めをさされてしまう前に見つけなくてはならない。
焦りつつも、蒼羅は周囲を見渡す。
そると、龍が胴体を水中から出していないことに気付いた。
瘴気に侵された水に傷を晒すのは辛いだろう。なのに中から出ようとはしていない。
気付いたときには、蒼羅は湖へとその身を投げ出していた。
背後で邪見が驚愕の声を上げていたようだが、彼女の耳には届いていない。
赤く濁った水は視界が殆ど無く、どこまでが底なのか判らないほどの有様であった。
溶け込んだ瘴気の影響は凄まじく、蒼羅の全身を突き刺すような激しい痛みが襲う。
だがそれに耐え、更に深度を深めていくと何か、ぼうっと白い光を放っている物を発見した。
……これは……。

「…っ、は…っ…殺生丸様!!!!」

水中から戻った蒼羅は、全身を赤黒い水でびっしりと濡らし、滴らせながらも構わず殺生丸の前に両手を広げ立ちはだかった。
闘鬼神を構え次の攻撃に移ろうとしていた殺生丸は目元を僅かに細めながらも動きを止める。
正面に躍り出てきた蒼羅に龍もまた、荒い息を付き睨みつけながらも様子を窺った。

「…何のつもりだ」

殺生丸の低い声が静かに響く。
蒼羅は怯まずに口を開いた。

「殺生丸様。この龍を殺してはいけません。彼女は母親なんです。自分の卵を守っているだけなんです!!!!」
「た、たまご…っ!?」

ビクビクと怖気ながら邪見が声を上げた。

「この湖の中に、大きな卵があります。彼女はそれを結界と自分の身体で守っているんです。その為に奈落の攻撃にも屈しなかった…だからお願いします殺生丸様!!剣をお収め下さい…!!!!」

しばらく、無言の間が続いた。
主に初めて反論した蒼羅。
それを静かに睨み返す殺生丸。
通常ならばその間に入り襲うはずが、そうする気配も無く二人の様子を見つめ動かぬ龍。
まるでその場所だけが時を止めたようだった。
そう思ってしまう程に、不自然な光景。
やがて、家臣の揺るがぬ強い眼差しに呆れたのか、殺生丸は静かに剣を収めた。
蒼羅はほっと胸を撫で下ろす。
が、同時に背後の影がぐらりと揺れ、銀の龍は大きな地響きと水しぶきを上げてその場に崩れ落ちた。

「駄目!!死なないで!!今までずっと頑張ってきたんでしょ…!?」

横たわる龍に駆け寄り、蒼羅は必死に呼びかける。
倒れても尚、蒼羅の背丈を遥かに越える巨大な頭部に、彼女は両手を広げて寄り添った。
苦しそうに呼吸を繰り返し、時折黒い血を吐き出す龍。
その血を被り、半身が赤黒く汚れてゆくのを気にも留めず、蒼羅はただただ辛そうな龍の様子に胸を痛めていた。
そして。

「りんちゃんお願い…妖怪の薬草を取ってきて…っ」

しばらく考え、思いつめたように口を開いた蒼羅に、邪見は信じられないとでも言うように怒声を浴びせた。

「蒼羅!!貴様何を言っている!!そのような事を殺生丸様がお許しになるわけが無かろう!!」
「殺生丸様が許してくださらないならそれでもいい!!だって私このまま放って行けない…せめて卵が孵るまでは…傍にいてあげたい…。あの卵はきっともうすぐ孵るから…」
「ふざけた事を!!置いてゆくぞ!!」
「なら置いて行けばいい!!すぐに追いつ……」
「蒼羅」

二人の言い合いを断ち切るように、殺生丸が蒼羅の言葉を遮った。
思いがけぬ主の声に、蒼羅はビクリとし、邪見はざまあ見ろと至極小さな声で呟く。
窘められるのだろうか。だが、そうであったとしても蒼羅の意思は変わらない。
傍にいたい。

「…三日」
「……は…?」

殺生丸がぽつりと漏らした言葉に、邪見が呆けた声を出した。
蒼羅も思わずきょとんとする。
二人の主は、背を向けながら続けた。

「それを過ぎれば置いて行く」

…それは、蒼羅の行動を許可する言葉。

「…え…えぇえええぇええぇぇぇ!!??」
「あ、ありがとうございます殺生丸様!!…りんちゃん!!薬草を探してきて!!」
「うん!!」

悲愴な声を上げる邪見を尻目に、口早に礼を言い指示を出す蒼羅。
その後一息ついて見上げると、大きな蒼い瞳がじっと自分を見下ろしていた。



一行の主はただじっと大木の根元に腰を下ろして様子を窺っていた。
己の従者は眠ることも休むこともせずにこの二日、一度は牙を剥いて来た巨大な龍を拙くも介抱している。
…あの龍の力は尋常ではない。
そう殺生丸は剣を向けた時から微かに感じ取っていた。
今でこそ力尽き横たわっているが、本当ならば自分ほどではないにしろ強大な妖力をその内に秘めていたはずだ。
その龍が、こうも軽々しく人間に心を許し、弱った己の身体に触れさせている。
…りんの当初の行動も不可思議だと思っていたが、今では蒼羅の方がずっと不可思議な人間だと思う。
蒼羅は、自分自身とりんを守る為に稽古を請い、戦い、果て、蘇生された恩から殺生丸に忠誠を誓った。
…恩があるとはいえ、妖怪に心から忠義を注ぐ人間など聞いたことが無い。
大抵の人間は、愚かにも妖怪を自らの種族より野蛮であると卑下する。
だが蒼羅はそのような考えを元から持ち合わせていないのだ。
だから迷いも無く己の前に深々と跪いた。強固な意志を宿した眼光を持って。
その眼を見て、従えてやっても悪くないと思った。
初め同行を許した時もそうであったが、どうしてそう思ったのかはわからない。
ただ言えるのは、どちらの場合も蒼羅の濃い琥珀色の瞳を見て良しとしたということだった。
重低音が夜の空気に鈍く響き、殺生丸は視線を上げた。
身体が痛むのか、龍が苦しげに唸り声を上げている。
瘴気が溶けた湖から身体を引き上げればよいものを、龍は頑なにそれを拒んでいた。
卵をそのまま残して出られない。そう訴えるように蒼羅を見つめ、彼女も仕方なくそれを承諾した。
始めは卵も移動させてはどうかと語りかけていたようであったが、それすらも龍が拒んだのだ。
そのせいで、龍の傷は一向に良くなる気配を見せていない。
「大丈夫?痛み止め…やっぱり効いてないの?」
蒼羅は心配そうに顔を歪め、龍に尋ねた。
「身体が大きすぎるから薬草が足りないんだね、もっと沢山飲ませないと…」
宥める様に硬い鱗を撫で、頬を摺り寄せる。
「でも今は…りんちゃんと邪見が寝てるから、二人が起きるまで我慢して…本当ならわたしが取りに行きたいけど…薬草、まだ少し見分けられないから…」
悔しそうに、蒼羅が呟く。
きちんと見分けられたなら、今すぐにでも疲弊した身体を引きずって採ってくるのに。
「ごめんね…頑張って……もう少しでしょ?」
天空が、ひっそりと光の気配を取り戻し始めた。
遠方の山々にかかった雲が、微かに白んでゆく。
蒼羅は、疲れきった顔で微笑んだ。

「………子供の顔は…見たいよね……?」

――……それは…叶うまい。

「……え?」

突然頭の中に響いてきた声に、蒼羅は目を見開いた。
ぴくり…と龍の大きな瞼が震えて、あの大きな蒼眼がこちらを見下ろしてくる。

――…蒼羅。

深い女性の声で、龍が囁いた。

――お前に…我が子を。

……天から、朝日が降り注ぐ。
覆いかぶさる木々の枝を突き抜けて射す強い光に、銀の鱗が瞬いて。
巨大な身体から輝きが消えたとき……閃光と共に湖から一匹の仔龍が躍り出た。



―傷付いた龍<終>
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