鏡花水月草子

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二つ目の生を授かりし者よ。
汝が定めた主に服従し。
芽吹き始めた信念を貫いて。

己に課せられた運命を受け入れよ。



第十七話「宙に舞う白刃の閃き」



日差しが生い茂る木々に降り注ぎ、森の中を照らす。
淡い光の中、大きな生き物の影がゆっくりと頭を起こした。
それは硬い褐色の毛に体を覆われており熊に似た姿をしていたが、爪や牙が異様に発達している所を見ると妖怪化した化け熊の一種であろう事が伺える。
それは大きく裂けた口から赤い鮮血を滴らせていた。
強靱な顎にくわえられているのは、一匹の肥えた猪。
どうやら化け熊は、夜行性である猪が日中塒で休んでいるその時を狙ったようであった。
何故なら、猪に抵抗した傷が見られず、一咬みで殺されていたからである。
その様子を、隣接した木の上で静かに観察している人間の姿があった。
肩に触れるか触れないかという長さの亜麻色の髪が、柔らかな風に揺れている。
白い生地に紅色の花模様が施された着物が、森の新緑に栄えていた。
化け熊が緩慢な動きで猪を巣に持ち帰ろうとしているのを確認すると、蒼羅は後を追うべく足場にしていた枝を軽く蹴る。
だが、その時僅かに枝がしなってしまい木の葉が擦れ、妖がこちらの存在に気付いた。
蒼羅はそれに小さく舌打ちをすると、化け熊が繰り出してきた鋭い爪を軽やかにかわした。
程なくして、その場に生臭い鉄の臭いがたちこめる。



例の如く、開けた森の中で一行は休息を取っていた。
焚き火の最も近い所に邪見が座り、殺生丸は少し離れた木の根元に胡座をかいて目を軽く伏せっている。
そこへ蒼羅がゆっくりと姿を現した。

「お、戻ったか……って、なんじゃそれは……」
「猪」

一言そう答え、蒼羅は焚き火の傍らに猪を置く。
邪見は己より大きなその獲物をまじまじと見つめた。

「…一体どうしたんじゃ…こんなもん。狩ったのか?」
「ん?たまにはりんちゃんにお肉でも食べさせたいな…と思って探してたんだけど、そうしたら化け熊に先を越されてたから貰って来ちゃった」
「……お前…逞しくなったな」
「そう?」

軽く首を傾げながら、蒼羅は彼の隣に腰を下ろした。
二度目の生を与えられてから、早くも七日が経とうとしていた。
救われ、忠誠を誓ったとはいっても、殺生丸の蒼羅に対する態度は以前と何ら変わりはない。
だが、蒼羅の心はとても軽くなった。
彼に対して萎縮する事も殆ど無くなり、ほんの少しではあるが時折話しかける事も出来るようになった。
明るく接する事が出来るようになった。
どうして、始めから気にせずにこうやって接する事が出来なかったんだろうか…と、蒼羅は何度も思う。
だがもしそうしていたなら、自分が殺生丸に仕える事は無かったかもしれない。
なら…これで良かったのではないだろうか。
少なくとも、今の現状に蒼羅はとても満足しているのだから。

「……あれ?」

何気なく辺りを見回し呟いた蒼羅に、邪見は顔を向けた。

「どうした」
「りんちゃんまだ帰ってないの…?」

始めに手分けして食料を探そうと言って別れてから、蒼羅はりんの姿を見ていない。
てっきり既に先に帰っているものと思っていたのだが…。

「そういえば遅いな…」
「邪見、後に付いて行ったんじゃなかったの?」
「いや…途中で見逃してだな……」
「……」

そんな彼に、思わず溜め息が漏れる。
最近の組み合わせでは、りんと共に行動するのは阿吽と邪見…という事で決まっていたのだが…。

「何か…あったのかな」
「農民が邪魔で畑荒らしをし損ねたのかもしれんぞ」
「…何かあったらどうするつもり?」

殺生丸様に叱られるどころじゃ済まないでしょ?と小声で付け加えると、邪見は顔を蒼くして立ち上がった。

「さ、探しに行くぞ蒼羅!!」
「うん。行こう」

蒼羅は薙刀を手に取って立ち上がり、くるりと殺生丸の方を向く。

「殺生丸様、行って参ります」
「……」

視線だけで返事を受け取ると、二人は思い思いの方向へとりんの探索に向かっていった。



殺生丸は先刻から漂ってきている微かな芳香に意識を集中していた。
蒼羅と邪見が場を離れた後もそれが途切れる事は無く、甘く仄かな香りが風に乗ってやってくる。
花のそれにも似ているようだったが、彼が知りうるどの花ともその香りは違うものであった。
何かを誘っているような、そんな香りである。
妖怪には利かないとは思うが、人間ならばどうだろう。
この距離では微かであっても、元は相当な強味の香りが発せられている筈だ。
人は誘われるだろう。
…戻らない、りん。

「………」

風上を見据えた殺生丸は腰を上げ、ゆっくりとその方向へと歩を進めた。
香りの強さから想定して、距離は十二町(約1.2km)程だろう。
花に似た香りで人を誘う妖怪…というものはあまり聞かない。
だが通常の植物がこのような香りを出すだろうか。
ともなれば、人を捕食する植物の妖怪…としか考えられない。
トン…と軽く地を蹴って、飛翔する。
目の前に広がる森林と、取り囲むように連なる山々。
そんな風景の遠い片隅で、葉がざわめき触手のような物が蠢く影が見えた。
木の間からは、微かに覗く赤い色。
……あれか。
殺生丸はほんの少し速度を速めて飛行を続行した。
風に、りんの匂いが混じりだす。



赤い花弁の奥には、小さな口腔の様な物が見え隠れしていた。
それを中心に取り巻くように灰色がかった緑色の触手が方々の木に絡まり、それらの幹よりも太い茎の根元には大人よりも遙かに大きい広葉が生えている。
葉には粘着質の液体に包まれており、そこにりんと阿吽は捕らえられていた。
この妖怪は、捕まえた生き物をすぐには捕食しない。
甘い香りで誘い出した獲物は葉によって捕らえられ、本体の腹が空く時分にそれらを一度に喰らうのだ。
その点に関しては、りんと阿吽は運が良かったと行っても良い。
りんは、阿吽にしがみついて震えていた。
阿吽の轡を外すことが出来れば脱出も可能だったのだが、捕らえられた時の位置が阿吽の口から離れていた為に手が届かず、何の行動も起こせなくなっていたのである。
ただ、助けを待つことしか出来なかった。

「…殺生丸さま、来てくれるよね?」

阿吽に問いかけると、彼らは小さく頷く。
そして、何かに気付いたように視線を移した。
妖怪から離れた場所に、白い影。

「? …あ…!殺生丸さま…っ!」

彼の姿を確認した瞬間、りんは今にも泣いてしまいそうな安堵の笑みを浮かべていた。
だが殺生丸に気付いたのは彼らだけではない。
今まで大人しく餌を誘い込んでいた妖怪が、それまでの獲物とは違う気配に反応して意識を彼の方へと向けたのだ。
この妖怪に目は無い。その代わり他の感覚が多少鋭くなっている為、殺生丸の強い妖気だけは敏感に感じ取ったようだった。
明らかに己の芳香によって誘われたのではない。ならば、餌を奪いに来たのか。
あの植物の中でそのような思考が巡ったのかどうかは定かではないが、それは木々に絡めていた触手を解き、鞭打つように攻撃をしかけてきた。
彼はいとも簡単にそれをかわし、音もなく地面に舞い降りる。
触手の動きは速くない。人間からすれば素速く、捕らえられる時には脅威であろうが。
何度目かの攻撃をかわし、まだ向かって来る触手を見据えながらそろそろ片を付けようと闘鬼神に手を添える。
だがそれが抜かれる事は無かった。
彼の目に映ったのは、迫り来る触手を両断する白刃の一閃。

「殺生丸様申し訳ありません!!遅れました!!」

息を切らしながら地面に着地した蒼羅は、そう言って殺生丸に振り返った。
そして再び襲ってきた触手をすぐさま排除し、林に向かって叫ぶ。

「邪見遅い!!早く人頭杖!!」
「わかっとるわいッ!!」

後から追いついてきた邪見はフラフラになりながらも人頭杖を振りかざし、植物の本体である花を焼いた。
その間に、蒼羅はりんと阿吽を捕らえていた葉を切り離して彼らを救出しる。

「りんちゃん、阿吽、大丈夫!?」
「大丈夫だよ…ありがとう蒼羅ちゃん!…殺生丸さま〜!ありがとう〜っ!!」
「わしを忘れるな〜!!」

蒼羅と殺生丸に笑顔を向けるりんに、妖怪を焼き尽くし終えた邪見が抗議した。

「えへへ、邪見さまもありがとう!」
「うむ!分かればよい!!」

先程とは打って変わって、胸を張る邪見。
蒼羅はそんな彼らを微笑ましそうに見つめ、そして殺生丸の元へと駆け寄って行った。

「申し訳ありません殺生丸様…お手を煩わせてしまったようで…」

彼女は、捜索の最中に飛翔している殺生丸を見つけ後を追い、途中で邪見を拾って駆けつけたのであった。
自力でりんを発見出来なかったからか、本当に申し訳なさそうに謝る蒼羅を無言で見下ろすと、殺生丸はそのまま踵を返す。

「…行くぞ」
「……はいっ」

彼の反応から、許して貰えたと判断した蒼羅はその背に柔らかな表情で返事をした。

「りんちゃん、阿吽、行くよ〜」
「だからわしを忘れるな!!」
「はいはい分かってます〜。りんちゃん、今日はわたし猪捕ったんだよ」
「ほんと!?じゃあ晩ご飯は猪のお肉なんだね!!」
「あはは…置いてきたから無事か分からないんだけどね〜」

背後に彼らの明るい声を聞きながら、殺生丸は先刻の蒼羅の太刀筋を思い起こしていた。

あの相打ちは偶然の賜物では無かったのか…と。



―宙に舞う白刃の閃き<終>
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