宿屋回顧録

□その他
2ページ/3ページ


命在る物が過ごす時間とは常に『選択すること』の連続だ。
生きる限りいつだって選択肢は突きつけられ、そしてそれは不可避だ。1つだけのときもあれば複数あるときもあり、また同じ選択肢でもそのときどきによって結果が変わったりもする。だから人類は、いつも気まぐれに心を変える選択肢の先を少しでも知り見通せるように『考えること』に特化して進化し、知能を手に入れた。
そしていま、エミルは夕飯のスープを凝視してかき混ぜながらも、人類が手に入れた知能で『触れる』か『触れない』かを悩んでいた。もちろん鍋に、ではなく横になって眠っている仲間の狼型の魔物に、でもない。狼を背もたれにして一緒に眠ってしまっているマルタに、だ。
鍋から顔を上げてちらちらとマルタを見るエミルは端から見れば見事なほどに挙動不審なのだが、それを注意するような人間は今ここにいない。人間ではないテネブラエも「少し散歩に」といっていなくなってしまった。
出来上がったスープを意味もなくをかき回し、止め、チラリと視線をマルタに向ける。そしてすぐに鍋に戻してかき回してを何回か繰り返し、ついに決心したようにエミルは鍋を火から外した。
既に出来上がっていたのにも関わらずかき回し続けていたせいか野菜は少し煮崩れしていたが、エミルはそれを気にもかけずにマルタに歩みよった。足音に気づいてすぐに眠っていた狼は目を覚まして様子を窺っていたが、エミルが左手で喉元を優しく撫でるとスッと目を細めた。ユラユラと揺れる尻尾を見なくとも、とても心地良さそうだ。
それを見てエミルは微笑よりも少しはっきり微笑んで、そしてマルタを見た。
相変わらずマルタは静かに寝息をたてている。薄い桜色をした唇が少し開いているのが可愛いらしい、と思ったエミルはなんとなく照れくさくなって目を逸らした。狼はそれを不思議そうに見ながら、それでも身じろぎせずに横たわっている。夕刻の風が、無粋な真似をしないようにと穏やかに2人と1匹の間を通り抜けた。
しかし通り過ぎたあと、エミルはマルタの髪が少し乱れて口のかかっているのに気がついた。どうやら遊び心をもった風でもあったらしい。精練された銅より少し明るいブラウンの毛が、艶やかな光を放つ薄いカーテンとなって桜色の唇を覆っている。
エミルはそのカーテンを何のやましい意図もなく自然に手で梳いて元の房にもどし、そして赤くなり勢いよく周りを見渡した。周りは相変わらず誰もいなく、いるのは空気を察したのか静かに伏せている狼だけである。ただし狼の尻尾はいまや垂れ下がり、目が空腹を訴えるように細められている。
エミルは心の中で謝りながら狼の頭を撫で、そしてマルタを起こすべく肩に手をかけた。

「? エミル。今日のスープ、ちょっと味濃いね」
「えっ、あ、うん。ちょっといつもよりも煮すぎちゃったみたーーー」
「マルタ様。責めてはいけません。エミルは調理中それはもう熱心に貴女をーーー」「わーーーっ!? えっ、なに! テネブラエさっきいたのっ!?」
「くっくっく…姿を消して見ておりましたよ」
「え、なになに? テネブラエ。エミルが私をどうしたの?」
「ですから、エミルは貴女を」
「わあああぁぁっ!!?」


FIN.
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ