辞典

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【大久保利通 (おおくぼとしみち)】
文政13年(1830年)、大久保家の長男として生まれ、藩主・島津斉彬や島津久光らに仕える。
文久2年(1862年)、公武合体路線を支持し一橋慶喜を将軍後見職に就任させる。
慶応3年(1867年)、雄藩会議の開催を計画するも慶喜により分解、倒幕路線へ。
慶喜が大政奉還を行うと王政復古を実行、小御所会議で辞官納地を主張。
新政府では大蔵卿や内務卿などを歴任。
明治14年(1878年)、暗殺。

【岡田以蔵 (おかだいぞう)】
天保9年(1838年)、岡田家の長男として生まれる。
武市を慕い、土佐勤王党に参加。
天誅と称して、幕府に味方する者たちの暗殺を進めたことで「人斬り以蔵」と恐れられた。
龍馬の計らいで一時は勝の用心棒となったことも。
幕使に捕えられ京を追放。
慶応元年(1865年)、打首。

【沖田総司 (おきたそうじ)】
天保13年(1842年)または15年、沖田家の長男として生まれる。
9歳頃、天然理心流の道場・試衛館で近藤周作の弟子となり、若くして塾頭を務める。近藤勇・土方歳三とは後に新選組の中核を担うことになる。
文久3年(1863年)、浪士組結成に参加して上洛、分裂後は新選組を結成。一番隊隊長を務める。
慶応2年(1866年)頃、幕臣松本良順が検診した際、肺結核の者が一人いたと記しており、これが沖田とする説もある。
翌年には周囲が認識し得る程病状が悪化し、松本により千駄ヶ谷の植木屋に匿われた。
慶応4年(1868年)、死去。

【勝海舟 (かつかいしゅう)】
文政6年(1823)年、旗本の長男として生まれる。
ペリー来航の際、海防意見書を提出し幕府に重用される。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准のため太平洋を横断し、アメリカを視察。
幕臣でありながら徳川幕府の限界を感じ、日本海軍の創設を構想。
倒幕運動が活発化すると平和的解決を模索するようになり、江戸白無血開城を実現させる。
明治32年(1899年)、脳溢血により死去。

【桂小五郎 (かつらこごろう)】
天保4年(1833年)、藩医の次男として生まれ8歳の時に桂家の養子となる。
16歳の時に吉田松蔭の松下村塾の門下生になり、その後江戸へ遊学。
尊王攘夷思想に目覚め、長州尊攘派のリーダー格として活動する一方、開明的な外交論・富国強兵論を持ち合わせていた。
慶応2年(1866年)1月、薩長同盟を長州藩代表として締結し、証人として龍馬に裏書きを要請。
木戸に改名した後、新政府では参与となり五箇条の御誓文の作成に携わる。
明治10年(1877)5月、病死。

【近藤勇 (こんどういさみ)】
天保5年(1834年)、宮川家の三男として生まれる。
嘉永元年(1849年)、試衛館に入門。後に養子縁組をし、正式に近藤姓に。
文久3年(1863年)、家茂の上洛警護を担当する浪士組を結成。後に松平容保の下、京都守護職配下の壬生浪士組と名乗る。
八月十八日の政変後、長州勢の残党狩りに出動し、その活躍が認められ新選組へと隊名を変える。
元治元年(1864年)、池田屋事件での働きによりその名を轟かせる。
慶応元年(1865年)、伏見街道の襲撃に遭い負傷、大阪城で療養生活を送る。
大久保剛と改名し甲陽鎮撫隊として出陣するも敗走。
捕縛され、慶応4年(1868年)板橋形場にて斬首。

【西郷隆盛 (さいごうたかもり)】
文政10年(1827年)、西郷家の長男として生まれる。
藩主・島津斉彬の腹心として活躍するが、安政の大獄で追われる身となり入水。
離島での潜居・遠島生活を経て復帰し、薩長同盟を締結。
王政復古を実現させ、戊辰戦争では旧幕府軍を敗った。
明治10年(1877年)、西南戦争にて自刀。

【坂本龍馬 (さかもとりょうま)】
天保6年(1835年)、坂本家の次男として生まれる。
嘉永6年(1853年)、19歳の時に江戸の千葉道場に入門した際、ペリー率いる黒船と遭遇。これが坂本龍馬が歴史の舞台に上がるきっかけとなる。
二度目の遊学を終え土佐に帰国した文久元年(1861年)、土佐勤王隊に加盟するも限界を感じ離党。
翌年、江戸で勝海舟と出会いその場で弟子入りし、神戸海軍操練所の設立に奔走するも、勝の罷免により薩摩に渡る。
慶応元年(1865年)、後に海援隊と発展する亀山社中を創設し、武器取引によって薩長の蟠りを解消。
翌年1月22日、薩長同盟成立の際に保証人となる。
1月23日、深夜、潜伏中の寺田屋を伏見奉行所の捕り方に包囲されるが、脱出に成功。この時両手指に重傷を負う。
慶応3年(1867年)6月、後藤象二郎に大政奉還を含む船中八策を提示。これを土佐藩主・山内容堂が建白書として提出。10月14日、15代将軍・徳川慶喜がこれを受理したことで、徳川の時代は終わる。
11月上旬京に上洛し、新政府綱領八策を作成。後の五箇条の御誓文に生かされることに。
15日、近江屋の二階で中岡慎太郎と会談中に刺客に襲われ絶命。

【高杉晋作 (たかすぎしんさく)】
天保10年(1839年)、高杉家の長男として生まれる。
安政4年(1857年)、松下村塾に入門。
文久2年(1862年)、上海に渡航。西洋列強の半植民地となっている状況を見て、帰国後は攘夷運動を展開。
翌年6月、奇兵隊を創設。
慶応2年(1866年)、第二次長州征伐を龍馬と共に戦い勝利に導く。
翌年4月、結核により死去。
共に維新の姿を見ることは叶わなかったが、寺田屋で龍馬の命を救ったのは、高杉から貰ったピストルだった。

【武市半平太 (たけちはんぺいた)】
文政12年(1829年)、武市家の長男として生まれる。
攘夷に目覚め、文久元年(1861年)土佐勤王党を結成。
文久2年(1862年)、公武合体派の参政・吉田東洋の暗殺を計画、藩政の実権を握る。
しかし翌年、八月十八日の政変で尊王攘夷派が京都から一掃されると、隠居していた前藩主・山内容堂は勤王党の弾圧を開始。
投獄され慶応元年(1865年)5月、切腹。

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