リクエストSS
□世界で一番君が好き
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翌日からディーノは家に帰る事をしなくなった。
家にいれば嫌でも恭弥と顔を合わせる。
今は恭弥の顔を見る事も、恭弥に顔を見られる事も耐えられそうになかった。
友人宅や研究室に泊り込むようになって数日が経った頃、ディーノの携帯に一件のメールが届いた。
『今夜は仕事で二人共留守にする。君がどこで何をしてても構わないけど、あの子を一人にしたくないから今夜は帰っておいで』
放任主義な両親は、けれど昔から末の息子には甘い。
ディーノとしてもまだ子供の恭弥を一晩中一人で家に置いておく事には抵抗がある。
仕方がない。今夜は帰ろう。
朝になったらまた家を出ればいい。
その間部屋に閉じこもって恭弥と顔を合わせないようにすればいい。
鍵は無くとも工夫次第で施錠と同じ状態にする事は可能だ。
もっとも、あんな目に遭った恭弥がいつものように部屋に入り込む筈もないのだが。
重い足取りで帰宅したディーノは二階の窓を見上げる。
恭弥の部屋から明かりが漏れていないのは、時間を考えれば当然だろう。
子供に限らず誰だってもう眠っている時間だ。
その事に少しだけ安心して家の中に入り込む。
数日帰らなかった家はどこかよそよそしく感じた。
自室に足を踏み入れたディーノは目を疑った。
ベッド上にあるふくらみは、どう見ても人間一人分のそれ。
そして今この家には、自分を除けば一人しか存在しない。
(嘘だろ……)
脱力したディーノがしゃがみ込むのと、もそもそと布団の塊が動くのは同時だった。
「どこ行ってたの」
布団の端から現れたのは、やはり思った通り弟の恭弥。
思いのほか声音にも表情にも怒りや嫌悪は見られない。
「勝手に部屋に入んなって言ってんだろ。人のベッドで寝てんじゃねえよ」
「僕の部屋は寒いしベッドも冷たい。でもここはあったかい」
「んな訳あるか」
「いつもはあったかい。でもあなたがいないから今はここも寒くて冷たかった」
「おま……何てカッコしてんだよ!」
ベッドから降りて目の前に座り込む恭弥は、夜着代わりかディーノのシャツだけを身に着けていた。
大きく覗く胸元や露にされた足にディーノは慌てふためくが、恭弥は自身の姿など何とも思っていないようだった。
「いつもあなたにくっついてたからあったかかった。でもあなたはいないから、あなたの匂いのする服着ればあったかくなるかと思って」
「なる訳ねーだろ!そんなカッコしてたら風邪ひくから着替えろ」
「やだ」
「部屋帰ってパジャマ着ろ」
「やだ」
「恭弥」
「ねえ、どうして僕を避けるの」
一番触れて欲しくない所に切り込んでくる言葉が胸に痛い。
瞳を逸らしたくても、真っ直ぐな黒い瞳に絡め取られてしまって動けない。
「今だけじゃない。もうずっと。昔はいつも一緒にいてくれたのに」
「いつまでも昔のままじゃいられないだろ」
「どうして。僕は昔も今も変わらずあなたが好きだよ。あなたは違うの?僕の事嫌いになったの?」
「んな訳……」
あなたが好き。
兄への親愛の気持ちだと言う事は百も承知だ。
けれど、その言葉の持つ甘い響きに抗う事は難し過ぎて。
「お前こそ、どうして俺の事嫌わねーんだよ。あんな事されて……嫌だったんじゃねえのか。お前、泣いてたじゃねーか」
「何のこと」
「……キスしたろ」
「ああ」
本気で恭弥は今の今まで意に介していなかったようだ。
あの時は涙を湛えて逃げ出したくせに、引きずる素振りも見せてくれないことが少しだけ悲しかった。
「あれは息が出来なくて苦しかったからだよ。あんなキス知らなかったから。あんな風に、動けなくなるくらい強く抱き締められたのも初めてで、痛くて苦しくてびっくりした」
「……ごめん」
「でも、嫌じゃなかったよ」
恭弥は絶対に嘘はつかない。
座り込むディーノと目線を合わせる漆黒の瞳は、いつもと同じ真っ直ぐで綺麗だ。
「けど、逃げたじゃねえか。いつもは追い出そうとしても言う事聞かねーのに」
「……あなたが、見た事ない顔してたから……知らない人みたいでびっくりして、ドキドキして。ねえ、僕が逃げたから怒ってるの?だから僕の事嫌いになったの?」
「んな訳ねえって言ってんだろ。俺がお前を嫌いになる事なんてありえねえ……好きなんだよ、お前が」
見つめる恭弥の瞳が小さく揺れた気がした。
その瞳に嫌悪の色が浮かぶかもしれないのが怖くて、ディーノは俯き視線を外す。
「お前の言う『好き』じゃない。俺のはもっと汚い。この間みたいなキスをしてあんな風に抱き締めて、その先に進みたい。綺麗な子供の頃のままでいたかったけど、もうあの頃には戻れねえ」
意地っ張りで可愛い弟が大好きだった。
いつまでも側に居て守ってやりたかった。
純粋に、ただそれだけを胸に抱いていた頃のままでいられたらよかったのに。
そうしたら恭弥だって汚れなくて済む。
あの頃と変わらず、綺麗なままで。ずっと。