Novels 1
□恋心
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恭弥が帰宅したのは午後8時を回った頃だった。
中学生の帰宅時間としては遅いそれを、けれど今日は誰も咎めない。
今朝自分よりも先に家を出た兄が残したメモには用件のみの簡素な走り書き。
『今日は遅くなる。夕食は冷蔵庫の中』
10も歳の離れた兄は弟をいたく可愛がっており、仕事上の理由であれば帰宅予定時刻までこと細かく説明した上で、やれ遅くはなるなだの食事はちゃんと摂れだの過保護なまでに干渉し、しまいには食事時に顔を合わせられない事に不満を募らせ『その内あの上司を咬み殺す』などど物騒な台詞までつくのが常だ。
そんな兄がいつもとは打って変わったそっけない言葉だけで済ます時、原因は一つしか存在しない。
兄弟二人だけで暮らすには広いマンションのリビングに足を踏み入れると、暗がりの中留守電のメッセージランプが点滅しているのがすぐに分かる。
明かりをつけ冷蔵庫の中から、兄が今朝用意したのだろう作り置きのプレートを取り出す。
それを温めている間に聞かずとも分かる留守電のメッセージに耳を傾ける。
『僕だけど……少し遅くなりそうだから待たずに寝てしまっていいからね。夕食はちゃんと食べるんだよ。じゃあね』
用件のみのメッセージは今からおよそ1時間ほど前に吹き込まれたらしい。
いつも決して早いとは言えない就寝時間を気遣う程には遅くなると言う兄の言葉を出来るだけ深く考えないようにして、恭弥は事務的に食事を摂る。全く食欲は無かったが残したり捨てたりすれば兄に余計な想像をさせるに違いない。
恭弥は最後の一口を咀嚼した。
味は全く分からなかった。
10歳離れた兄には同性の恋人がいる。
兄よりも更に7つ年上のイタリア人男性は同じ職場の直属の上司なのだそうだ。
恭弥が中学校に入学する頃初めて顔を合わせた彼は、イタリア人らしく陽気で明るくて人懐こくて、人見知りをする自分がすぐに警戒を解いたのを覚えている。
整った顔立ち、光に反射してキラキラ輝く髪、細めると甘さが増すような蜂蜜色の瞳。
それらから目が離せなかった。
『はじめまして恭弥。俺はディーノ。よろしくな』
告げられる声は包み込むように優しくて。
一目惚れだった。
兄の恋人であるディーノに、恭弥は初めての恋をした。