第一部

□7.5
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あれから桜君(違和感がある呼び方だけど)は火傷の手当てだけして、ご飯も食べず、風呂にも入らずすぐに床に就いてしまった。
蓮華様は疲れてるだろうからゆっくり寝かせてやれといい、風呂に向かった。

そして今、私は裏庭に植えられた木の前で自分の爪を見た。
あの時程は鋭くは無いが、人を傷つけるには十分な位は伸びている。
人差し指の爪で親指をすう、と撫でてみると親指の腹に白い筋が入り、ぷくりと赤い血がにじみだした。その血を軽く舐めてみると当たり前だが鉄の味がした。苦かった。
そして何より痛かった。

「あの男の人たち大丈夫かな。痛かったよね。…絶対。」

私は目の前の木で爪をとぎはじめた。
長いせいで、いつも以上にえぐれる木の肌を見て、私はむきになって強く、強く爪をといだ。
爪が剥がれるのではないかと思うほど強くといだ。

「うぅ、うう…。」

怖い。

「うぅ、ひっく…。」

人を傷つけて何も感じなかった自分が。

「うっ、うっ。」

あの時の私は、誰?

次第に手に血がにじみだした。涙で視界が揺るぎはじめる。

だけど構わない。もっと痛い思いしないと。私が痛みがわからない子だからあんなにひどい事ができたのだ。

「うぅ、うぅ…。」

「おい、楓!何してんだ馬鹿!」

風呂を上がり、縁側を通る時、蓮華様は私に気付いたらしい。蓮華様は強く私の腕を掴んだ。後ろを振り向くと、濡れた蓮華様の長い髪月明かり照らされていた。

「なにやってんだよ、血でてんじゃねえか。ほら。」

そういって私の手をひいて、蓮華様は家へ入った。
どこで止まればいいのか分からなかったから、内心ほっとしている自分がいる。それがまた腹立たしかった。
居間の座布団に座らされて、ほぼ強制的に指に薬を塗られた。慣れた手つきで包帯を巻くと、蓮華様は私の頭をぽかりと殴った。

「なんで自分を傷つけるようなことした。」

「……。」

「なんとか言えよ。」

「……自分が許せなかったからです。」

「…?」

長い沈黙だった。
今日の出来事を、自分に起きた変化をどうしようもなく話したかった。
だけど、話してしまったら蓮華様は私から離れてしまうのかと考えると怖かった。
自分が自分で無くなることより、自分を自分として見てくれる人を失う方がよっぽど私には怖かった。私は唇を強く噛んだ。
そんな私の気持ちを察してか、蓮華様は小さく息をつくと、私の頭をぽんと撫でて立ち上がった。

「もう、馬鹿なことするんじゃねぇよ。」

立ち去ろうとする蓮華様の着物の裾をとっさにつかんだ。
一人にして欲しくないという気持ちと話したいという欲求がそうさせてしまった。
その気持ちや欲求の中に蓮華様が私のことを嫌いになるはずなどないというおごりが少なからずあったからなんだろう。本当に私はわがままだ。

「行かないでください!蓮華様!うぅ、うわぁん!」

蓮華様は仕方ねぇなと笑うと優しく抱きしめてくれた。
いつも私が駄々をこねて泣きだすと蓮華様は決まって抱きしめてくれる。そして、分かったよと言うように背中をさすってくれるのだ。
その後、嗚咽でなかなか上手く話せない私の話をずっと黙って聞いてくれた。

しばらくして、落ち着いた私はまた、話をはじめた。

「私、自分が怖くなってしまいました。この間、蓮華様に『自分が忘れたくて忘れた過去だったらどうする』って聞かれて、あの時は軽くあんなこと言ったけど、本当に私は笑って受け入れられるか不安になってしまいました。もしかしたら、昔、蓮華様に会う前は私、たくさん人を殺してたんじゃないかなって。そんなふうに思ったりとか、へへ。」

私は笑ったけど、蓮華様はいたって真面目につぶやいた。

「俺は、俺は自分の過去を笑えない。過去を知っていても自分は本当は誰なのかわからなくなって不安になることもある。だから、過去を知らないお前がどれだけ不安なのか俺には想像もつかない。だけど、この俺だって不安になることくらいはある。それだけは確かだ。」

私は完璧で何も怖いものなどないと思っていた蓮華様の口から『不安』の二文字がでてきて、正直驚いてしまった。

「蓮華様も、不安になることあるんですか?」

「ないわけないだろ。」

「へへへ…。」

「何笑ってんだよ。」

蓮華様はいたずらっぽく笑って軽くでこぴんしてきた。

「なんだか、嬉しいんです。蓮華様が私にそんなこと言ってくれるなんて。初めてですね。」

蓮華様は一瞬はっとした顔をしたけれど、少し口を尖らせて、お前ほど弱虫の泣き虫じゃねえけどな、といった。
そして、こう付け足した。

「今度から自分を傷つける前に俺に言え。そしたらたっぷり叱ってやるから。」

なにより嬉しい言葉であったのに違わなかった。

誰でもきっと不安をもっているんだ。新しい生活が始まることに桜君も不安でいっぱいなんだということが今ならわかる。
前より過去を知ることが怖くなったのは確かだけど、やっぱり知りたかった。

明日あの人たちに謝りに行こう。きっと許してはくれないだろう。でも自分の気持ちは伝えておきたいと思う。きちんと償えるなら償いたい。

もう、誰も傷つけないと心に誓った。



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