青エク夢

□雨は降りやまない
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×××

雨は哀しげな音を奏で、大地を潤す。
 
乾き果てた土は麗しい光を宿して、命に輝きをもたらす。
けれど悲哀の香りは消える事なく、切なげに空中を漂う。
 
その光景を、慈しむように見つめる少女がいた。
その光景を、楽しげに見つめる男がいた。
 
二人は言葉を交わす事もなく、降りしきる雨の歌声に聴き入っていた。
 
それ以外には何もなかった。
歌と共に、全てが跡形もなく消え失せた。まるで最初から何もなかったように、ありとあらゆるものが姿を消した。
 
今、二人の世界にあるのは雨音だけ。
 
それは結晶のように不純物がなく、だからこそ途方もなく脆い何かだった。
 
その名前を、少女はまだ知らない。傍らにいる男は知っていたが、あえて口にしない。少女にそれを教えるのは、もっと後で良いと思っているから。
 
「雨は……神様の涙だと先生は言っていました」
 
鈴の音――否、少女の声だった。ひどく悲しげな表情を浮かべ、少女は雨空を見上げる。
 
「神様は……先生が死んでしまった事を悲しんでいるのでしょうか?」
 
少女は問う。
 
鈴の音を思わせる儚い声音が、雨音に溶け込んでいく。そこから滴り落ちるのは、花の蜜にも似た甘美なるもの。それはどこまでも清らかで神々しい。
 
男は悩ましげにため息を漏らした。
 
「お優しい。あなたは天使のようにお優しい心の持ち主です。あなたが先生を想うお気持ちを、神様は汲み取ってくれたのでしょう。今日の雨は一段と見事なものです」
 
「先生はこの雨を……天国から見ていますか……?」
 
「ええ、きっと。私が保証致しましょう。あなたが敬愛する先生は、天国という楽園からこの美しい雨を見ている事でしょう。――もちろん、あなたの事も」
 
「―――っ……」
 
少女は苦しげに嗚咽を漏らし、涙を流した。愛らしい顔には、仄暗い陰りが浮かび上がっている。けれど醜さはまるでなく、吹き抜ける風のように涼やかだった。
 
不思議な少女だと、男は心の中で呟いた。
 
勿論、呆れているのではない。感動しているのだ。まるで新星を見つけた研究者のように、まるで幻の新大陸を見つけた冒険者のように、男の心は高揚していた。
 
「私はあなたの先生を存じ上げませんが……泣いているあなたを見たら、きっと心配される事でしょう」
 
嘘だった。
男は少女の泣顔をいつまでも鑑賞したいと思っている。
 
「どうか笑って。先生は……あなたの笑顔を心より愛していた事でしょう」
 
「でも……」
 
「何か思う事がおありなのですか?私で良ければ、聞いて差し上げられますが……ああいえ、私で良ければですが」
 
男はそう言って、笑みを浮かべる。それは天使を思わせるほど深い優しさに満ちているが、ひどく艶かしい何かを含ませていた。それを毒花と例える者もいる。しかし此処にいるのは少女だけ。それ故に少女は気づく事なく、無垢なる心を露にする。
 
雨音が淫らな音を響かせたのは、そんな時だった。
 
「私が」
 
少女はポツリと呟いた。
 
「私が殺したって……お父さんも、お母さんも……みんなみんな……私のせいだって」
 
「それは酷い。あなたのお父様とお母様は、どうしてそんな事を言うのでしょう?」
 
「呪いの子……みんな私をそう言います……きっとそうなんだと思います……」
 
「――ああ」
 
男はねっとりと目を細め、頷いた。
 
その振る舞いは優雅で華麗。一流の役者が見たならば、きっと彼を称賛するに違いない。例えそこがひどく簡素な舞台であったとしても、彼は輝かしい花を咲かせて、観客を魅せる事だろう。否、惑わすというべきかもしれない。
 
「なるほど。先生の不幸は、あなたによってもたらされているのだと……お父様とお母様は、そう仰ったのですね?」
 
「はい……私がいけないんです……呪われた子だから……」
 
「ああ何とお痛わしい……先生の死に、あなたが直接関わっているわけでもないのに……」
 
これも嘘だった。
浅ましく醜い虚言を口にした瞬間、男の全身は歓喜で震え上がった。彼の心は、命は、魂は、悦びという膨大なエネルギーによって、振動する。
 
同時に腹を抱えて笑いたくなった。強烈な衝動に駆られながら、彼はありったけの思いを巡らせる。
 
素晴らしい!
ああ、何と素晴らしい!
 
この少女に恋をした悪魔が、彼女の愛する先生とやらを殺したのだ!
悪魔でありながら、たった一人の少女を想うあまり、その身を嫉妬という業火で焼き付くしたのだ!

ああ、何とおそろしい!
 
高尚なる悪魔の全てを狂わせてしまうとは!
 
素晴らしい!
実に素晴らしい!
 
雨音の悲鳴が谺する。それは行く宛もなく、虚無を抱いて大地へと落下した。そこから生まれるものは、小さな小さな命の塊。その奇跡すら、今の男には霞んで見えてしまう。
 
それほどまでに、男の心は遥か空の彼方まで舞い上がっていた。
 
けれどそれは、長くは続かない。終演はなんの前触れもなくやって来る。春の到来を告げる暖かな風が、男の心の中に入り込む。
 
「――!」
 
視線を感じた。
 
少女が彼を見つめているのだった。まるで祈るように、願うように、そしてすがるように。良い目だと思った。天使などという存在より、ずっと良い目をしている。
 
深く透明な少女の瞳は、真珠のように柔らかい色で染め上げられている。人工的なものは何一つない自然さが、途方もなく愛おしい。
 
いっそこのまま有無を言わさず、この少女を愛でてしまいたい。きっと蕩けてしまいそうなほど凄絶な色香を解き放つだろう。
 
――だが、しかし。
 
「申し訳ございません、シンデレラ」
 
男は少女に謝罪する。その言葉に偽りはない。どこまでも崇高で気高い想いが言葉に彩りを与えている。
 
「どうやら私は、あなたの白馬の王子になり得ない出来損ないの不良品だったようです。ですがご安心を……」
 
男はゆっくりと膝を付き、愛しげに少女を仰ぎ見た。白く滑らかな彼女の手を、宝物のようにそっと両手で包み込む。それはまるで、牢獄に閉じ込められた美姫を救う騎士のよう。
 
「貴女に相応しい白馬の王子を、見つけて差し上げますよ」
 
男が少女に誓いを立てる頃、雨は密やかな声で鳴き始めた。その果てにあるものは、慈愛という名で出来上がった鎖。永遠の時をさ迷うより他はない
 
雨はまだ降りやまない。

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