刀剣夢

□彼らを知るには貧しすぎて
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美しい老女の傍らには、いつも美しい青年がいた。名前を青江と言う。女と見間違うほど整った顔立ちは、その手の趣味がある男を虜にするだろう。醸し出される艶かしい色気は、きっと女を惑わすに違いない。男にしては華奢な体だけれど、完璧と称するに相応しいプロポーションだった。美しく扇情的なスタイルは、モデルかと思うほど。否、ひょっとしたらそれ以上かもしれない。
 
他の事は知らない。素性も年も、彼は自分について何も語らない。それを好ましく思っていないのか、それとも語らない事を愉しんでいるのか。どちらにせよ、それは青江の魅力をさらに高める材料でしかない。ミステリアスさは、彼という男の美しさを一際輝かせているのだ。
 
一つだけ、青江について噂になっている事がある。あくまでも、噂程度。それ以上の話にはならない。おそらく、この噂に信憑性というものがないのだろう。噂を餌とする女達の創作なのかもしれない。少なくとも私は、この噂を信じてはいない。
 
老女と青江は恋仲にあるなんて、とても信じられる話ではないのだ。
 
私がこの病院に勤務してかれこれ5年の月日が過ぎた。その間、数多の恋模様を目の当たりにしてきた。純愛というべきもの、不純というべきもの……。時には恋という名の争いに発展した事もある。ここだけの話だが、不倫現場も飽きるほど目にしてきた。そうなだけに、私にとって恋は何の変哲もない代物に成り果てた。仕事の妨げになるという意味では、迷惑極まりないものにも思えている。

老女と青江の噂についても例外ではない。
 
その老女は良家の一人娘だという。青江と同じく、それ以外については何も知らない。美しい年の重ね方をした人だ。白く儚げな髪に切なさを覚えた。老女でありながら、その佇まいは可憐な花を咲かせている。彼女の美しさは青江のそれとはまるで違う。清純で上品。華やかさはまるでないが、あらゆる時代に通じる王道的な美しさ。
 
端から見れば、彼らは祖母と孫に思える。けれど血縁関係はないという。だから、だからこそなのだ。その美しさに好奇心を抱き、恋仲などという噂が生まれてしまったのだ。彼らが、それほとまでに美しくなければこんな事にはならなかった。美しさは時に災いをもたらす。
 
そんな災い、私にとっては知ったことではないのだ。少なくとも、こないだまではそう思っていた。その気持ちが変わるはずがないと信じていた。しかし、そうならなかった。あれを、あれを見てしまったのだ。
 
その日は天気が良かった。梅雨だというのに、ハイキングでもしたくなるような心地よい日。涼やかな風は肉体労働で火照った体を冷やし、程よい太陽の温かさが夜勤明けの体を癒してくれる。その天気がいけなかったのだ。もっと淀んだ天気だったなら、こんな事にはならなかった。梅雨にしては珍しいほどの行楽日和。つい、病院の屋上で朝食のパンを頬張りたくなったのだ。本当に、本当に後悔している。
 
病院の売店であんパンを買って、誰もいないはずの屋上へと向かう。朝焼けが眩しく、澄んだ空気が本当に気持ち良かった。先程干したばかりの白いシーツが風と共に揺れ動いている。屋上からの街並みは平凡。しかし見張らしは悪くない。私は鼻唄まじりに、あんパンを頬張る。あんこの甘味と、程よいバターの味が口一杯に広がった。小さな幸せを噛み締めながら、そこでようやく私は異変に気付いた。
 
「――あ?」
 
間抜けな声を漏らす。私はささやかな朝食を楽しみたいだけだった。けれどそうはならなかったのだ。屋上にはもう一組いた。思わず食べかけのあんパンを床に落とす。一瞬、幽霊の類いかと疑ってしまった。それほどまでに、気配がまるでなかった。何の前触れもなく、彼らの姿が視界に入る。
 
「あれは」
 
老女と青江である。老女は車イスに乗っている。遠くから見ても分かる。この病院内であれほど目立つのは彼らしかいないのだから。清廉とした彼女の横顔は、ある種の芸術品を思わせた。その顔に刻まれた皺ですら、彼女という芸術品に彩りを与えているように見えた。太陽の光に反射する繊細な白い髪は、真珠のよう。否、老女の姿について頭を巡らしている場合ではないのだ。
 
私は老女の行為の意味を理解する事が出来なかった。
 
生まれてから30年。数多の経験を積んできた。それらは全て記憶として脳に貯蔵されている。その全てな記憶と照らし合わせ、今目に映る光景の答えを導こうとする。しかし答えは出ない。その為、目の前にある光景を理解するのに大変な時間を必要とした。
 
老女と青江は唇を重ね合わせている。
 
たったそれだけ。しかし、だからこそそれ以上の意味があった。否、爆弾というべきなのかもしれない。少なくとも、私の中にある漠然としたルールが一瞬にして砕け散ったのは確か。体は石のように硬直する。まるで蛇に睨まれた蛙だ。おかしい、私ら誰にも睨まれてなどいないのに。
  
口づけというのは、年を重ねた老人がする行為ではない。
 
どこかでそんな風に思っていた。そしてそれが当たり前だと信じていた。ましてや相手は孫ほど年の離れている。あり得ない、おかしい、どうかしている。
 
彼らの口づけは長い。
 
ぴったりと、溶け合うように唇を重ね合わせている。けれどそこに性的な匂いは何一つない。まるで太陽の光を浴びた朝顔が花開くような自然さが、そこにはあった。その可憐な朝顔の花びらに、清らかなしずくが零れ落ちるようような口づけ。それは一つの絵画だった。
 
私にとってそれは絵画であると同時に、宇宙から零れ落ちた隕石でもあった。私の目の前で、さもそれが当たり前な自然現象であるかのように、堂々と地上へ落ちる。そんな事が堂々と起こって良いものか。否、あるはずないだろう。
 
けれどそれは幻覚なんかじゃない。
 
ああせめて、夜勤明けに見た夢であって欲しい。
だって私が知る世界の常識とは何一つ一致しないのだから。これは夢。そして現実には起こらなかった。そうだ、そうしてしまおう。
 
彼らは気付いていない。つまり私がこの場で見なかった事にしてしまえば、全ては元通り。後は私が何もかも忘れてしまえば良い。家に帰ってそのままベッド潜り、寝る。それが良い、そうだ、そうしよう。
 
「――看護士さん、覗き見かい?」

屋上のドアをそっと開けようとした矢先、声を掛けられる。声の主は言うまでもない。青江だ。気づかれていたのだ。
 
「いけないなぁ、覗き見なんて」
 
その声色は相変わらず艶やかだ。ひどく落ち着いていて、まるで動揺というものを感じない。寧ろ完全に動揺してしまっているのはこの私。ドアノブを回したくても、指が小刻みに震えてどうする事も出来ない。こういうのを天に見放されたというのだろうか。
 
「あ、あ、すいません、なんか」
 
私は振り返り、即座に謝罪する。声は完全に上ずっている。青江の顔は普段通りで、妙に色気のある瞳を光らせている。何を考えているか分からない微笑が、私をこれ以上ないほど不安にさせていく。体温が一気に上昇していくのが分かる。みるみる額から汗が滲み出てきた。
 
「分からないなぁ。彼女は何故謝るんだろう……ねぇ?」
 
青江は首を傾げ、傍らにいた老女を見る。そこでようやく、私は老女の姿をはっきりと確認した。彼女は少女のように恥ずかしげに顔を赤らめている。下品さなどまるでない。邪な気持ちが彼女にはない。それ見て私は全てを悟る。ああ、やはり、そういう関係なのかよ君ら。
 
せめて青江が声を掛けなければ何もなかった事に出来たのに。
 
「――嫌な目をするね、君」
 
「……え?」
 
「ふーん、気付いてないのか。…君、不味いもの見たって顔をしてるよ」
 
青江はひどく悲しげな表情を浮かべる。妖艶とした声色は少しだけ暗くなり、それが私に何かを訴えているように思えた。それほど嫌な顔をしているつもりはない。多少、動揺はしているがそのせいだろうか。
 
青江は暫く私を見つめ、傍らにいた老女の肩をそっと抱く。包み込むように優しげなその行為は、彼の純粋な愛情から成り立っている。白く、ほっそりとした青江の手が、老女の華奢な肩の上を滑る。たったそれだけの行為でさえ、ひどく丁寧で繊細だった。
 
私は無意識に、その光景から目を逸らす。
 
「そ、そんな、つもりは、ないですけど」
 
「へぇ、そう?」
 
嘘だ、と青江は分かるだろう。そんなつもりが微塵もなければ、私はここで目を逸らしてはいない。無意識の行為は彼らを悪戯に差別しているのと同じ。そんな私の剥き出しの本音を、青江という青年は見透かしている。だからこそ彼は親しげに、それでいて冷ややかな微笑を見せる。
 
「貧しい人だね、君」
 
その言葉の意味が分からないほど、私は無知ではない。
 
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