.

□水葬された月
1ページ/1ページ


雨はあまり好きでは無かった。
ざあざあという音も好きでは無いし、濡れると冷たい。それに夜、雲で月が見えなくなるのも、何故だか悔しく感じた。

しかし今日は生憎の雨だった。
遥か天高くに存在する澱んだ雲から落とされる雫は、大地に染み込みきれずに流れだしている。

その流れ出す水に混じる、紅。
つぅと糸を引くように、其の紅が流れていく。

その紅の源は俺の足元に無様に横たわっていた。
まだ呼吸をしているのかほんの微かに肩が上下していた。

かつては、攘夷戦争で戦った戦友。
今となっては、殺すべき対象。
随分残酷な世の中だと天理を呪った。


神様、というものが存在するのなら何故善人であったあの人が死ななくてはならなかった。あの人が幸せなら、俺達も幸せだった筈なのに。

確かにこいつのやった事は裁かれるべきなのかもしれない。
なら俺も同罪だ。死んだ命の仇討ち等した所でまた無駄で無意味な血が流れるだけだ。その事に気付くのに俺は遅すぎた。

もっと早く気が付いていれば、俺がこいつを殺す必要などなかった筈なのに。

「、はぁっ…、ぁ」

「高杉、」

口から血を流し、腹部からは更に血を溢れさせている。その明らかな致命傷である傷は俺がつけたものだ。

高杉の狂気を静めるにはもう、こうするしか無かった。
紫色に金色の蝶が縫い付けられていた筈の着物は、雨水と血液でどす黒く変色している。



不幸が起こる日はいつも雨だ。
両親が死んだのも、あの人が死んだのも、全て雨の日だった。
その悲しみに思考回路が追い付かず、涙が流れる事はない。そのかわりに、いつも天が泣いていた。
その度に俺は悪態をついた。泣く位だったら何故殺したんだ、泣く位なら両親を、あの人をかえしてくれと。

あの人が死んだ時、こいつは皆の目の前では泣かなかった。
そのかわりに深夜、俺の部屋に来て俺にすがり付いて泣いた。小さく嗚咽を上げ、男にしては細いその肩を震わせて。


其れを見て、こいつが鬼でも獣でも無い、ちゃんと温もりを持ったヒトだと感じた。

質量を増した雨が更に強く地面を叩く。

染み込みきれなかった其れらは、地面を滑る赤色を拐っていった。

すると、荒く呼吸を繰り返す高杉の目が見開かれた。
まるで有り得ないものでも見るような、驚きが含まれた視線の先には只、虚空が存在するようにしか見えない。


「……………」

『松 陽 先 生 、』
もうまともに発声も出来ないのか、微かに唇が動いただけだったが、其れでもはっきりと彼があの人の名前を呟いているのが視認出来た。

俺は、何も知る事が出来ない。
本当に其処にあの人が居るのか、もしくは高杉が造り上げた幻なのか。

また、僅かに唇を動かす。

『ご め ん な さ い 』

謝罪の言葉を唇から吐息だけで話す高杉はとても嬉しそうに笑った。
ぎりりと胸が軋む。
その翡翠に喜びを滲ませる表情はあの時のまま、ただただ穏やかで幸せな日々を過ごしていたあの頃のままだった。






『た だ い ま 』






確かにそう呟いた。

その言葉を呟いた後、彼はその美しい翡翠の瞳を閉じた。
彼は今この瞬間、この世界から消えた。

その顔は、凶悪犯罪を犯すようなテロリストの顔とは思えないような、穏やかで優しい表情だった。

あの頃は、自分がこの大切な戦友を殺す事など考えもしなかった。
その間に、時代はゆるりゆるりと流れ、やがて残酷な形で終焉を迎えた。

力の抜けた、彼の体を抱き寄せる。まだ若干の体温を残したままの体は、ピクリとも動く事はない。

「高杉っ…!」

彼は消えた。
あの人の幻影と共に、水葬されたように消えた。










神様は、あの翡翠色を幸せにしてはくれなかった。


[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ