GENE.L ‐箱庭‐

□@第4話
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「じゃあ、オレこっちだから」
 右手を軽く振りながら、T字路を曲がっていく。あの日の勉強会から、部活動のない時は良介・レオニード・リリアナの三人で帰宅することが彼らの習慣になっていた。
 長い髪を揺らしながら、角へ姿を消していく。完全に見えなくなった瞬間、良介は踵を返し、彼の後を追うように進んだ。
「良介くん? どこへ行くの?」
「奴を尾行する。お前は先に帰っていてくれ」
 前へ向き直り、歩みを速めようとしたが、リリアナに腕を掴まれ止められた。
「待って。どうして追おうとするの?」
「俺は奴のことを、もっと知らなければならない。それに、家へ向かうならここで曲がるのはおかしいんだ。何処か別の場所へ行くのなら、それを確かめなければ」
「気持ちはわかるけど、見つかったらどうするの? 何て言い訳するつもり?」
「それは――」
 問い詰められ、言葉が途絶えた。感情が先走り、無計画に行動に出ようとした己の愚かさを悟る。力の抜けた腕を、彼女はそっと解放した。
「もう、だったら初めから相談してくれればいいのに」
「……すまない」
「いいの、謝らなくて。私は、あなたを助けるために存在しているんだから」
 微笑みながら、徐にしゃがみ込む。足元には、毎日見かける小さな黒猫が佇んでいた。白く細い指で、優しく頭を撫でる。
「おねがい。少しだけ、君の目を借りていいかしら」
 彼女が囁くと、ニャア、と小さく鳴いて走り出す。塀の上へ跳び、家々の屋根を伝うようにレオニードの後を追っていく。
 良介が尋ねる前に、リリアナは説明した。
「これで大丈夫。あなたの代わりに、あの子が彼を追ってくれるわ。今あの子が見ている光景は、私の力であなたに見せることができる」
 語りながら、そっと良介の額に触れた。突然、自分のものではない視界が彼の脳に伝わる。その視線の先には、レオニードの後ろ姿があった。
「どう? 慣れてくれば、こういう使い方もできるんだよ」
 細まる瞳、弧を描く唇。しかし、その笑顔も含めて、つくづく恐ろしい能力だと彼は思っていた。
 瞼を閉じると、より鮮明に猫の視界が映し出された。良介の予想通り、彼は自宅からみるみる離れて行く。しかし、そこは何故か見慣れた道でもあった。
 大通りを渡り、踏切を横切り、橋を伝っていく。辿り着いたのは、かつて良介が入院していた大学病院だった。正面入り口の自動ドアが開き、レオニードは躊躇することなく中へ吸い込まれていく。言うまでもなく、猫の目ではそれ以上の追跡は不可能だった。
「病院……何故あいつが」
「怪我はしていないから、病気なのかもしれないね」
「ああ――」
 しかし、追求してもレオニードが答えることはないだろう。彼らに黙って通っているということは、誰にも知られたくない秘密であることを意味するからだ。
 呟きながら、良介は担当医だった赤郷医師のことを思い出していた。退院以来、彼からの連絡はない。それどころか、保護司であった加藤茂樹の突然死という一大事があったにも関わらず、保護観察所からも、県警捜査第一課からも何の音沙汰もない。

 つまり、再び陽神の力によって揉み消されたということだろう。遂に、良介が『隼人』の為に何者かを殺めたという事実が。

「あれ……? この子、鳳凰の制服着てる」
 ふと、疑問を呟くリリアナ。再び猫の視界に集中すると、そこには確かに、鳳凰学園高校の制服に身を包む少女が映し出されていた。短く切り揃えた髪にダークブラウン縁の眼鏡、小さなリボンのついた赤いカチューシャ。見覚えのあるその姿は、中学以来の後輩・吉川葵のものであった。通学鞄を右肩に掛け、大きな紙袋を左手で持ち、忙しない様子で病棟へ駆け込んでいく。
 彼女が見えなくなるのと同時に、猫との交信も途絶えた。



「お母さん。持って来たよ、着替え」
「遅い! グズグズするんじゃないよ!!」
 同室の患者のことなど構わず、大声で怒鳴りつける。睨みつけるのは、肩で息をし、汗を拭い、たった今荷物を運んで来た実の娘。
「ごめんなさい、ちょっと先生につかまっちゃって……」
「そんなことより大病を患った母親の方が大事じゃないのかい!? 物事には優先順位ってものがあるって散々言って聞かせたじゃないか!!」
 唾を飛ばしながら叫び、当然の様に紙袋を奪い取る。顔面には相変わらずの濃い化粧、艶のない髪には噎せ返りそうな薔薇の香り。耳にも爪にも、指にも首元にも施された大袈裟な飾り付け。傍らに置かれたブランド物のバッグも財布も、全てが病院の白い空間に溶け込むことなく、強烈な違和感を放っている。
「見舞いに来たってのに、土産の一つもないのかい? ったく、使えない娘だねぇ……」
 舌打ちをし、飲み物を買ってこいと顎で命じる。溜息から漂う、酒と煙草の臭い。止められても隠れてやっているんだろうな、と思いながら小銭入れを持って廊下に飛び出す。
 彼女――吉川(よしかわ)翠(みどり)は、葵の母親であり、生まれつきの遊び人である。高校を中退し、十七で葵を産み、一度も定職に就くことなく夜な夜な繁華街を彷徨う、一部業界では有名な女であった。育児も半ば放棄しており、葵はこれまで母親の手料理というものを口にしたことがなかった。
 当然、父親が誰なのかはわからない。曰く、葵が生まれた直後に離婚したらしいのだが、その話が本当なのかどうかさえ定かではない。ただ一つ言えることは、翠とは正反対の真面目な性格の持ち主であり、それがそのまま葵に受け継がれたということだけだ。
 機嫌を損ねないようにする、ただそれだけの為に葵は彼女のことを『お母さん』と呼んでいるが、心中では皮肉って『女王様』と称している。その方が彼女には相応しいと思っているからだ。自分たちの関係も、『親子』というよりも『女王様と下僕』とした方が割り切れて楽でいい。間違っても母親だとは思いたくないし、その腹から生まれ血を継いだ実の娘だとも思いたくはない。
「じゃあ、バイトの時間だから、もう行くね」
 缶コーヒーをテーブルに置くと、脱兎の如く病室から抜け出して行く。女王様の喚く声が響いたが、聞こえなかった振りをしてエレベーターホールへ急いだ。
 親は子供を選べない。同様に、子供も親を選べない。わかってはいても、納得はしたくない。どうして、自分はあんな女のもとへ生まれ落ちてしまったのだろう。なぜ、金と酒と男にしか興味のない、だらしない女の娘として生きているのだろう。答えが出ないことは百も承知だ。それでも、考えずにはいられないのだ。
 父親がいて、母親がいて、兄弟がいて、あたたかい家があって、おいしいご飯があって、楽しそうな笑い声がして。そんな家庭を、何度も何度も思い描いた。憧れは、年を重ねる毎に強くなる。友人の家を訪ねる度に、学校行事が開かれる度に激しくなる。しかし、どんなに求めても、応えてくれるような存在は葵の傍にはいなかった。
 彼女は諦めていた、母親に真っ当な教育と愛情を欲することを。だから、せめてあんな恥ずかしい人間にならないように、自分は立派になろう。きちんと勉強して、懸命に働いて、自立した女性になろう。そしていつか、自分が命を授かる日が来たら、母親として恥ずかしくない女になろう。うっかり寝過さないように扉の傍らに立ち、葵は自らに言い聞かせていた。流れる車窓の景色は茜色に染まり、烏の飛び交う東の空には紺色が広がっている。
 定期入れを翳し、改札を出た。彼女の勤務先は、地元から少し離れた駅前の真新しい書店である。小さな頃から本が好きで、将来は図書館司書になることを夢見ている。もしくは出版社か、今の様な書店での仕事でもいい。とにかく、本に囲まれた空間が職場であることが彼女にとってはこの上ない幸せなのだ。
 本は良い。物語は孤独を紛わせ、知識は未知なる世界への誘いとなる。文字を追っている間だけ、彼女は女王様の下僕ではなく、ロマンチストとなり、冒険者となり、一人の『人間』となる。
 お疲れ様です、と言いながら控室に入り、制服であるエプロンを装着する。レジに立ち、嬉しそうに本を差し出す客の笑顔を見ることも彼女は大好きだった。雑誌であろうと漫画であろうと、学生であろうと社会人であろうと、その幸せな気持ちが本を通じて伝わってくるような気がしていたからだ。
「次の方、どうぞー」
 声を掛け、列に並ぶ客を促す。直後、彼女はその人物と目が合った。

「「あっ……」」

 重なった声。ぴたりと止まる動き。ほんの一瞬だけ、彼らは二人だけの世界にいた。
「ちょっと、早くしてくれません?」
 背後に控える女性の一言で、ようやく二人の時計は動き出した。鳳凰の制服を少し着崩した背の高い茶髪の少年が、おずおずと葵のレジへ向かう。
「……渡邉くん、ですよね?」
「……おう。お疲れさん」
 気まずそうに、ぼそりと呟く。やって来たのは、葵と同じクラスの男子生徒・渡邉(わたなべ)達也(たつや)だった。大阪出身のムードメーカーで、バスケ部の新鋭としてその名を轟かせている学園の人気者。しかし、彼が持ってきたのは、そのイメージを大いに裏切るものだった。
「渡邉くん……パティシエ、目指してるんですか?」
 数冊のスウィーツやケーキ作りの本、そしてフランス語の教材。そこから導き出されるのは、現在パティシエになる為の勉強中で、フランスで修行を積むことも考えているという結論。
 葵の問いには答えず、目を逸らし、俯き、頬を赤らめる達也。その様子を、可愛いなと思いながら、彼の心の内を把握する。
「大丈夫。誰にも言いませんよ」
 笑いかけながら、会計を済ませる。呆気にとられた顔をしていたが、我に返って財布を取り出し、慌てて必要な金額を支払う。
「ありがとうございましたー!」
 何事もなかったかのように、葵は彼の後ろ姿を見送った。そして、いつも通りに次の客を呼び寄せる。
 辺りは、すっかり暗くなっていた。
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