GENE.L ‐箱庭‐

□☆第3話
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「おはよう。昨日はごめん、せっかく案内してくれたのに」

「いいんだ、気にするな」


 活気に満ちた、ホームルーム前の教室。その喧騒に掻き消されない様、精一杯の気持ちを込めて頭を下げる。しかし、深刻に捉えていたのは大海だけだったらしく、篤志は大袈裟だなと言いつつ笑ってくれた。


「今日はどうする? 仮入部の手続きでもしておくか? 無理はしなくていいけどな」

「うん、そのことなんだけど……まだ、バッティングに自信がなくてさ。しばらく自主練してみて、いけそうになったら入部ってことでもいいかな」

「大丈夫だと思うが……練習なら、入部してからでもいいんじゃないか?」

「でも、他の皆に迷惑掛けるわけにもいかないし」


 バッティングができない本当の理由をこの場で語れるはずもなく、笑って誤魔化そうとする大海。幸い深く追求されることもなく、そうか、の一言で篤志も納得してくれた。


「今月末に新人戦があるから、間に合いそうなら教えてくれ」

「わかった、ありがとう。……ところでさ、清川くん」

「キヨでいい。何だ?」

「じゃあ、キヨ。あそこに座ってる桃山波音さんって、どういう人?」


 遠慮勝ちに、窓際の最前列を指す。クラスメイトの中には交わらず、一人で本を読んでいる。昨日の出来事を話すと、篤志はその質問の意図を把握したようだ。


「さぁ、俺にもよくわからない。確かに不思議な雰囲気を持ってはいるが、良く言えば大人びていて、悪く言えばお高くとまってる奴という印象が強いな。あいつ自身も友人を作ろうとはしないし、周りの連中も近づこうとはしない。だが、独りでいても苦痛ではなさそうだな」

「ふぅん……って、わぁっ!?」

「おはよー、ヒロミ! ねぇ、何の話してたの?」


 意味もなく後ろ姿を見つめていると、急に背後から抱きつかれて素っ頓狂な声が上がった。袖の長いセーター、胸まで伸びた金髪。最早、確かめるまでもない。


「ちょっと、ミオウ! 驚かさないでよ!!」

「あは、ごめんごめん。ちっちゃくてかわいいもんだから、つい」


 小さい。可愛い。その二つの言葉が、容赦なく大海の心に突き刺さる。


「良かったね、ヒロミ。今日はバカジマくん欠席みたいだよ」

「バカジマくん……?」

「鹿島遼平(かじまりょうへい)、昨日お前に難癖つけてきた奴だ。成績が万年最下位だから、馬をつけて馬鹿島。そっちの方が定着して、皆そう呼んでる」

「へ、へぇ……」

「でも、運動神経はすごくいいんだよね。小学校の時は野球チームのエースだったんでしょ、アツシくん。夢も、ヒロミと同じ甲子園だって言ってたような……」

「えっ、そうなの!?」


 意外な共通点が発覚し、あからさまに興味を持って食い付く大海。対して篤志は、苦虫を噛み潰したような顔で答える。


「確かに、その通りだが――」


 言い出したところで、チャイムが鳴った。同時に担任が教室に入り、生徒達が慌ててそれぞれの席に着く。


 続きが気になったが、篤志にとってあまり快い話題ではないのだろう。諦めて、大海は学業に専念することにした。







 翌朝、午前七時。大海は一人、静かな公園に足を踏み入れた。昇り始めた朝日が眩しい。目を細めながら寂れたベンチに鞄を下ろし、自前のバットを握り締める。しかし、両手は震え、それは次第に大きくなっていく。





ねぇ、キミ、パパがいないっていうのは本当かい?

そうか。実は、キミのパパかもしれないっていう人と知り合いなんだけどね

ほら、これを見てくれ。ここに写ってるの、キミのママじゃないか?





「うっ……」


 止まらない震え、凍りつきそうな指先。荒い息、激しくなる動悸。頭痛までもが、彼に襲い掛かる。





いやっ、やめて、離して……誰かぁあっ!!

騒ぐな、尻軽女!! どうせあのガキも、どっかの米兵と寝て作ったんだろう!?

違う、違う、違うぅうっ





「お母さん……おかあさん……」


 気づけば、双眸から涙が零れていた。バットを手放し、膝を折り、俯く。風が、彼の赤い髪をそっと揺らす。


 柄を握ると、どうしても思い出してしまうあの日の悪夢。自我を失くし、殺意を露にした凶暴な己の姿が蘇り、また同じ過ちを犯してしまうことに恐怖を覚える。


 前日の夕方も、人気のない空き地で練習しようと試みた。しかし、できなかった。指先が震え、罪の意識に苛まれ、腕が、心が、全てがそれを拒絶する。


「どうして、だめなの? おれはただ、野球がしたいだけなのに……」


 小さな叫びが、虚空に呑まれて消えていく。


 野球がしたい、甲子園に行きたい。その気持ちは本物だ。けれど、それを邪魔する何かが彼の心に残り、消え去ろうとしない。どんなに自分に言い聞かせても、どんなに叱咤しても、バットを振ることができない。


 このままでは、夢を叶えられない。祖父の遺志を、約束を果たすことができない。再び、逃げ出すことになる。自分に嘘を吐くことになる。厭だ、厭だ。だけど、だけど――。





「何泣いてんだよ、ヘタレチビ。自主練してんじゃねーのかよ」





 突然、頭上から憎まれ口を叩かれた。聞き覚えのある声だ。


「……どうして、ここに」

「オレがいつどこで何してようとオレの勝手だろーが」


 口では隠していたが、その傍らにあるもので大海は状況を理解した。錆びついた自転車の籠に、まだ配るべきものが残っている。


「貸してみろ。バッティングってのはな、こーやってやるんだよ」

「えっ、でも、仕事は……?」

「うっせーな、黙って見とけ!」


 無理やりバットを奪い、両手で柄を握る。目つきが変わった。集中し、前を見据え、構える。まるで、そこがバッターボックスであるかのように。まるで、その先にマウンドがあり、ピッチャーと対峙しているかのように。


 洗練された、美しいフォームだった。それでいて隙がなく、素早く、滑らかに、風を伐るようにバットを振る。大海には、打たれた球が見えた。大空に舞い、太陽に重なり、軌跡が綺麗な弧を描き、外野へ落ちていく。ホームランだ。


「……すごい……!」

「甲子園目指すってーなら、これぐらいはやってのけねーとな」


 それだけ言ってバットを放り投げ、自転車に跨り、颯爽とこぎ出して行く。彼の姿が見えなくなる前に、大海は思いっきり叫んだ。


「あのっ……ありがとう!!」


 横目で捉え、何も言わずに目を逸らす。照れ隠しなのだろう、と大海はすぐにわかった。口が悪くても、ぶっきらぼうな態度でも、その全てが彼らしさなのだろう、とも思えた。


「よし――!」


 意気込んで、柄を掴む。その手はもう、少しも震えていなかった。







「なかなかサマになってきたじゃねーか」

「遼平ほどじゃないけどね」

「ったりめーだ、簡単にオレ様を超せると思うなよ!」


 あれから毎日、大海は素振りをするようになった。新聞配達に励んでいる遼平も、必然とその様子を見守ることになり、いつの間にか二人はすっかり意気投合していた。


「これなら、もう野球部に入っても大丈夫だな」

「じゃあさ、一緒に入部しようよ」

「いや――オレはいい。金も時間もねぇから」

「……そっか」


 大海は、それ以上無理には誘わなかった。いや、誘えなかったと言った方が正しいかもしれない。


 詳しく聞いたわけではないが、遼平の家庭環境が芳しくないことは容易に想像できた。経済的余裕があれば、まだ中学生の息子に仕事をさせる必要はない。それに、大海は見てしまったのだ。サンバイザーによって隠された右目の痣――何者かに、暴力を振られた痕を。


「んなことよりさ、大海。この後、オレんち来ねーか? とっておきのお宝があるんだぜ、甲子園のな!」

「本当? いいの!?」

「おう! じゃあオレとっとと配って来っから、ここで素振りして待っとけよ!」


 得意げに笑ってから、自転車で飛び出していく。意気揚々とした彼の背中を見て少し不安になったが、それは杞憂に終わり、大海は彼の家へ案内された。


「わりぃな、ちょっと狭くて汚ねーんだけどさ」

「ううん、大丈夫」


 彼の自宅は、築五十数年程のアパートの二階にあった。汚いどころか、部屋中ゴミだらけで足の踏み場もない。台所には悪臭が漂い、虫が集っている。大量のカップ麺の容器と割り箸が散らばっており、酒瓶とビールの缶もあちこちに転がっている。煙草の吸殻も拾われていない。


「ねぇ、遼平……」

「心配すんな。オヤジはどーせ一日中パチンコ屋に入り浸ってっから」


 まだ何も尋ねていないのに、遼平は間髪入れずに父親の不在を主張した。それ以上は何も聞けず、大海は黙って彼の背中について行った。


「ほら、見てみろ。すげーだろ!?」

「わぁっ……!!」


 埃を巻き上げながら、押し入れの奥から取り出された段ボール。その中には、甲子園で販売されているペナントやキーホルダー、ストラップ、タオルといったグッズが溢れていた。勿論それだけではなく、カレンダーやポスター、専門雑誌、試合のDVD、新聞の切り抜きをまとめたノートやファイルも詰まっている。


「すごい、すごい!! これ、全部一人で集めたの!?」

「当然だ、昔はよく観戦しに行ってたからな!」

「いいなぁ、おれも欲しいなぁ……」

「――何なら、気に入ったやつ一個だけやってもいいぜ?」

「えっうそ、本当に!?」

「ああ! 特別大サービスだぜ、感謝しろよ!」

「するする、超感謝する! ありがとう、遼平!!」


 早速、夢中になって物色し始める大海。すると、玄関の方から乱暴に鍵を開ける音がした。誇らしげに笑っていた遼平の顔が、瞬時に険しいものに変わる。


「大海、隠れろ! 急げ!!」


 有無を言わせず背中を押し、段ボールのあった空間に避難させる。


「何、どうしたの!?」

「わりぃ、オヤジが帰ってきちまった。あいつが出てくまでここに隠れててくれ、いいか、何があってもぜってー出てくんじゃねーぞ!」


 その剣幕に怯え、黙って頷いた。襖が閉まると、隙間から洩れる光以外は何も見えなくなる。


「遼平、遼平! どこにいるんだ、返事しろ!!」

「ここにいるっつーの、昼間っから喚くんじゃねーよ」

「何だと? 生意気な口利きやがって、クソガキがぁ!!」


 鈍い音がした。直後に、壁に何かがぶつかり、ゴミ山が崩れる音が轟く。


「どーせパチンコでスッたんだろ? 金ならいつものとこに入れてある、とっとと持って出け! 二度と帰ってくんな!!」

「フン、減らず口が!! そーいうことはもっと稼げるようになってから言うんだな!!」


 扉の閉まる音がした後、大海はすぐに押し入れから飛び出した。予想通り、殴られた遼平が居間で倒れている。


「遼平、遼平! しっかりしてよ、ねぇ!!」

「泣いてんじゃねーよ、大袈裟な奴だな……いつものことだ、心配すんな」

「泣くに決まってるよ、心配するに決まってるよ!! とにかく、すぐ病院に……」

「無理だよ、保険証持ってねーもん」

「そんな――」

「……すまねぇな、大海。情けねーとこ見せちまって」


 涙を腕で抑えながら、ぶんぶん、と力強く首を横に振った。


 中学に入るまで、遼平は父、母、弟、妹の五人家族で平凡な暮らしを送っていた。決して裕福な方ではなかったが、野球ができて、家族みんなでご飯を食べて、幸せに過ごしていたそうだ。


 しかし半年前、父親が不慮の事故に遭い、利き腕を満足に動かすことができなくなってしまった。もともと経営難だった工場をリストラされ、求職するも仕事は見つからず、自棄を起こした父親は酒と賭博に明け暮れ、そんな彼を責める妻に暴力を振るうようになった。それは徐々にエスカレートしていき、遂に彼女は子供たちを置いて姿を晦ましてしまったのだ。


 生活保護を受けるも、それだけで足りるはずもなく、遼平は進学してすぐに働かされるようになった。けれどその報酬は生活費に充てられず、あろうことかそのほとんどが父親によって浪費されていく結果になったのだ。


「そんなの、どこにでもある話だろ……? だから、いちいち騒ぐようなことじゃねーんだよ」

「でも、遼平……暴力は、犯罪なんだよ? 警察に訴えれば、助けてもらえるんだよ? どうして何もしないでいられるの? 辛い想いをしてるのに、我慢して殴られ続けるなんて……あんまりだよ……!」

「――約束、なんだよ」


 母さんとの、約束なんだよ。クソ親父に殴られようと蹴られようと、耐えて耐えて耐えまくって、弟と妹を守って、いつか母さんが帰ってくるその日まで待つんだよ。ある程度の金が稼げたら、オレたちを必ず迎えに行くって言ってくれたからな。


「だから、いいんだよ、このままで。この家から出ちまったら、母さん、オレたちの居場所がわからなくなっちまうだろ?」

「でも、けど……!」

「大丈夫、オレは強ぇんだから、あんなクソ親父に負けたりなんかしねーよ……」


 へへ、と力なく笑ってみせる。しかし、彼の瞳が大海の姿を映すことはなく、ただ虚無を見つめるばかりだった。


 雲が、泳ぐように空を進んでいた。





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