GENE.L ‐箱庭‐

□☆第1話
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「この様に、細胞が分裂して増えるのではなく、精子もしくは卵子を作る為に染色体、つまり遺伝子の量を半分にする為の分裂のことを減数分裂といいます。結果、精子と卵子はそれぞれ半分ずつしか遺伝子を持たないことになり、受精することによってようやく遺伝子の量が一人前、ということになります」



 生徒達に背を向けて、図を描きながら教師は言った。黒板にチョークという前時代的な手段を取る学校は都会にはないだろうが、離島のような片田舎では未だにこのスタイルが基本となっている。その方が子供の教育に相応しいとする大人達がわざわざ内地からやってくるのだから、捨てたものではないのかもしれない。



「因みに、子供の性別は精子の持っている染色体によって定まります。卵子が持っているのはX染色体だけなので一種類しかありませんが、精子はX染色体とY染色体のどちらかを持っていますので、二種類あるということになります。X染色体の精子が受精すれば、卵子のXと合わせてXX、つまり女性となります。Y染色体であればXY、つまり男性になるということです」



 風が強く、雲が水の様に流されている。教室の窓から、校庭の芝生が揺れているのも、海に白波が立っているのもわかる。単調な教師の講義は、もはや快眠へ誘う子守唄でしかない。



「男性の方が筋力があり、一般に女性よりも強いと解釈されがちですが、Y染色体はX染色体よりも免疫力が弱いのです。従ってY染色体の持ち主である男性の方が寿命が短い場合が多く、女性にはかからず男性にはかかる病気も数多く発見されています」



 頬杖をつきながら、大海は耳を澄ませていた。聞こえるのは規則的な寝息、これは隣の席からだろう。それ以外は、頬を赤らめ談笑する女子生徒の小声か、得意げな笑みを浮かべる男子生徒の笑い声のどちらかだった。


 その中から一人、あからさまな冷やかしをした少年の声が響く。



「せんせー、人はどーして子作りするんすかねー?」



 一瞬の間を置いて、静かな空間が豹変した。幼稚な喧騒に溜息をつき、教師は抑揚のない声で返す。



「静粛に。授業に関係のない質問は控えなさい」

「えー? だってセックスの話だろ、これ?」



 瞬間、女子から非難の声が上がる。それに男子も応対し、十五人しかいないはずの教室が秩序を失う。それを鎮めたのは、昼休憩の開始時間を告げるチャイムだった。



「……人類に限らず、生物が子孫を産むのは自らの遺伝子を後世に残す為です。いわゆる種の保存というもので、ヒトならヒト、犬なら犬、猫なら猫という種が未来永劫生き残り続ける為だけに、生き物は子孫を残そうとします。生存競争に勝つ為には、病や自然環境に強くなる為には、遺伝子はより複雑で、より多くの要素を含んだ状態が理想的となります。だから、生物は交配するのです」



 わかりましたね、と加えてから、教師は質問をした問題児の名を呼び、職員室に来る様言い渡し、扉を閉めた。


 生徒達は、授業が終わったにも関わらず先程の話題を続けていた。互いに机を寄せ合い、弁当を広げながら、教師の直接的な表現や、調子に乗った男子生徒の無神経な発言を咎めたり、面白がったりしている。


 そんな中、大海は一人教室の隅に寄り、いただきます、と小さく唱えた。











「……なんでいるんだよ、ストーカーかよ」



 校門の影に隠れていた男の正体に気づくと、露骨に拒絶の表情を浮かべた。



「悪いか。お前がまた一人で海遊びをしない様、監視して欲しいと頼まれただけだ」



 嘉一さんにな、と付け足しながら鷹仁は大海の姿を流し目で捉える。



「海遊びって言うな、スキンダイビングって言え!」

「格好をつけるな、素潜りで十分だろう」



 いちいち難癖をつけてくるこの男の存在が、大海は不愉快で仕方がなかった。それだけではなく、周囲の視線を集めていることも、女子達の黄色い声が聞こえてくることも彼の苛立ちを助長させる。


 鷹仁から逃げる様に、大海は早足で帰路を辿った。そんな態度に動ずることなく、鷹仁は一定の距離を保って彼の背を追う。



「ついて来んなよ、目障りなんだよ!」

「目的地が同じなんだ、文句を言うな」

「いい加減にしないと、警察に被害届出すぞ!?」

「出したいなら出せばいい。まともに取り合ってもらえる保障はないがな」

「くっ……」



 先日突きつけられた遺書を思い出し、口を噤む。あれは確かに、彼の母によるものだった。しかし、その男に自らの親権を譲渡する理由が、彼には理解できない。


 生き別れた父親だと言うのなら納得がいく。だが、赤い髪に空色の瞳を持った彼の遺伝子が、鷹仁から譲り受けたものでないことは容易に推測できる。宇宙を思わせる漆の様な黒が、生粋の日本人であることを証明しているからだ。



「――じゃあ、なんで、今更迎えになんか来たんだよ」

「今更……?」

「とぼけんな! 本気でおれを預かるつもりなら、お母さんが死んだ直後に来てるはずだろ!? それなのに……大体、父親でも旦那でも彼氏でもないアンタに、なんでお母さんがおれを託すんだよ!!」



 立ち止り、振り返り、渾身の力で問い詰める。その叫びは波となって砂糖黍(きび)畑を渡り、そして、消えた。風が通り過ぎてから、鷹仁は答える。



「当然の疑問だな。だが、答えることは出来ない」

「……だったら、なおさら付いていくわけにはいかないね」

「但し、これだけは伝えておこう。大海、俺はお前の出生に関わっている。そして――お前の父親を知っている、唯一の人間だ」

「え……!?」

「お前が俺の指示に従うのなら、十八の誕生日に真実を明かすと約束しよう」



 再び、彼の思考が停止した。細い唇から放たれた幾つもの言葉が彼を惑わし、混乱に陥れる。汗が止まらない。胸が苦しい。欲望とそれに反発しようとする心が彼を板挟みにし、立っていることすら儘ならなくなる。


 卑怯だ、と彼は毒づいた。そんなことを言われて、気にならない人間などいるわけがない。



「もう一つ、条件がある」

「――なに?」

「甲子園、即ち全国高校野球選手権大会に出場し、優勝を果たせ。それが出来なければ、父親のことは生涯明かさないつもりだ」

「なっ……!」

「お前の母親、赤郷聡美(あかざとさとみ)は甲子園を夢見る女子高生だった。その意志は息子が継いでくれたと聞いたが……大海、野球道具はどこへやった?」



 崖の淵から突き落とされる、錯覚。全身が震え、凍り、現実の景色が見えなくなり、蘇る、あの日の自身の狂気。



「うるさい……うるさいうるさいうるさいうるさい、うるさいッ!!」



 吐き捨て、我を失い、一心不乱に走り続ける。自分でも、どこへ向かって走っているのか、何から逃げているのかがわからなくなる。


 いや、わかっている。逃げているのは、あの男からではない。ひたむきに夢に焦がれ、聖地に憧れてやまなかった、純粋だった幼き日の自分。そして、怒りに身を任せ、悪魔に魂を売り、自分自身を裏切ったもう一人の自分。


 気づけば、見知らぬ場所に彼はいた。前を見ても、後ろを見ても同じ景色。鬱蒼と茂る新緑の森に挟まれた一本の道。その中央に横たわる、小さな黒い影。



「あ……」



 それは、死体だった。道路に飛び出し、車に轢かれ、潰されてしまった水鶏(くいな)の死体。骨が砕け、羽が散り、蠅に集られ、烏に突かれている、死体。


 近寄ると、烏が飛び去った。既に腐っているそれを、躊躇いなく手にする。道路の脇の土の中に埋めながら、大海は、頬に涙が伝うのを感じていた。


 生物は、子孫を残す為に繁殖する。何の為?


 自身の遺伝子を残す為。種を存続させる為。生存競争に勝つ為。


 もしそれが、真実だとしたら。遺伝子を残す為だけに存在しているというのなら、それ以外に存在する意味はないというのなら、自分という命は、子孫を残したその瞬間に用済みになる。生きている理由を失う。子孫さえいれば、死んでも構わない。種が生き残るのであれば、いつ、どこで、誰が、どんな目に遭っても、どんなに辛く苦しい思いをしても、どんな死に方をしても構わないということになる。





 そんなことが、あっていいのか?





 この水鶏も、あんな殺され方は望んでいなかっただろう。しかし、生まされてしまった以上は死ぬしかない。なぜ生まれてしまったのか。祖先が遺伝子の奴隷となって生殖行為に及んだからだ。誰も、何も、逆らえない。


 子孫を残した途端に、命が絶たれる種も多い。命が絶たれる寸前に、子孫を残す種も多い。それが繰り返され、永遠に、続いていくのだ。個々の命の価値など、あってない様なもの。だとすれば、その循環にこそ、何かしらの意味があるとでもいうのだろうか?





 答えの出ない問い。こんなことを考えるのは、彼にとって初めてのことではなかった。





 この島は箱庭の様だ、と彼は思っていた。空を映す海、深く濃い緑、色鮮やかな花、夜空に瞬く星。この小さな世界が、様々な色、様々な命で彩られている。耳を澄ませば、彼らの声が聞こえてくる。それを楽しみ、慈しみ、愛するのが人間だとすれば、宇宙に浮かぶ箱庭――地球を多様な種で満たし、遺伝子によってそれを継続させ、愉しみ、愛でているのは誰か?





 そんなことはわかりきっている。そして、その右腕として機能しているのが遺伝子だ。





 彼は、自身を孤独にする己の遺伝子を呪っていた。遺伝子の命令に逆らえず、自らを生みだした先祖を呪っていた。そしてまた、それに抗えず子孫を残すであろう未来をも呪っていた。


 こんな苦しみを味わうなら。こんな十字架を背負わされるくらいなら。こんな屈辱を受けさせられるくらいなら。命など、欲しくはなかった。そもそも、望んだ覚えすらないのに。それなのに、それなのに、それなのに、それなのに、それなのに。





 種を残す。増やす。何の為? 箱庭をより美しくし、より精密にする為。何の為? 箱庭の主(あるじ)を愉しませる為。





 そんなことに利用されるぐらいなら。一匹の快楽も一人の絶望も一羽の終焉も、愉しませる為だけにあるのなら。子孫さえ残せばあとはどうなろうと構わないとされる程取るに足らないものだというのなら。遺伝子を乗せ、運んでいく只の舟でしかないというのなら。





 今ここで、その支配に逆らい、水底に沈ませても良いのではないか――?





「よォ。探したぜ、小僧」



 我に返らせたのは、擦れた卑しい声色。鷹仁のものではない。背後にその主は立ち、彼が振り向いた瞬間その肩を掴み、押し倒し、馬乗りになる。サングラスで目元を隠した男が、左手で彼の口を覆い、右手で首を絞めながら、吸い殻を吐き捨て、紫煙を顔に吹きかける。癖のある香水が、鼻腔を掠めた。



「騒ぐんじゃねえ。手前(てめえ)だろ? 米軍殺しの、赤郷大海ってのは」



 懸命に首を振った。否定する為ではなく、抵抗する為に。恐怖を押し殺す為に。



「諦めろ、もうネタは上がってんだよ! 表向きはレイプされかけた母親がバットで撲殺したっつー事件として処理されたが、本当は……殺したんだろ、手前が」



 やめろ、やめろ、やめろ。これ以上言うな、言うな。



「大人しく認めるってんなら解放してやるぜ? さぁ言え、僕が殺(や)りましたって! さもなきゃ……悪い子には、お仕置きが必要だなぁ?」



 ナイフの先端が、彼の左目に照準を合わせる。男の唇が厭らしく弧を描き、その距離が徐々に徐々に縮まっていく。



「早くしろ!! いい加減にしねぇと、手前は永遠に……」

「失明することになる、とでも吐くつもりか」



 刹那、首を圧迫する力が消えた。彼が起き上がるのと、男が地面に叩きつけられるのはほぼ同時の出来事だった。



「言え。誰だ、その情報を売ったのは」

「ちぃっ……」



 逃げ出した男を、追い掛けようとする鷹仁。だがそれをしなかったのは、彼の脚に縋りつく大海を思ってのことだった。


 全身を震わせ、瞼を濡らす小さな命。責めることはなく、問い詰めもせず、彼はただ、その緋色の髪に掌を添え、慰める様に、慈しむ様に、包み込んだ。





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