GENE.L ‐箱庭‐
□@第4話
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陰神(いんのかみ)。それは、『生』の理を司る創造主。その魂は宇宙に在り、依り代となった命には触れたもの全てに『生』を与える力が宿る。
陽神(ようのかみ)。それは、『死』の理を司る破壊神。その魂は太陽に在り、依り代となった命には触れたもの全てに『死』を与える力が宿る。
前者は第一級神格者、後者は第二級神格者と呼ばれる。他の理を司る魂は第三級神格者、即ち一等星である。徳の高い魂は強く煌く為、『光』や『音』、『大気』などの理を授けられた。
魂は、本体となる星が存在する限り何度でも輪廻転生を繰り返す。しかし、この世の真理に嘆き、絶望し、神を呪って命を絶った時、星は輝きを失い、その魂は二度と蘇らない。
陰神の依り代となった少年・真田良介(さなだりょうすけ)は、生まれてから意識を失うまでの一切の記憶を消されてしまった。犯人は、陽神の依り代であり、彼の幼馴染であった少年・霧崎隼人(きりさきはやと)。だが、『霧崎隼人』という人間の存在すら抹消され、彼は『レオニード・アンドレイヴィッチ・ゲルギエフ』というロシア人との混血児として良介の前に現れた。そしてたった今、最愛の娘を事故で喪い、絶望の淵に立たされた男に触れ、その命を奪ったのである。
「わかったでしょう、良介くん。これが、陽神の力よ」
光の理を司る一等星(スピカ)の依り代、リリアナ・アレクサンドロヴナ・ヴェルナーツカヤが、銀細工の髪を靡かせ、碧い瞳を閉じて呟いた。彼の腕の中には、突然意識を失って倒れたレオニードが横たわっている。
「野放しにしていては、とんでもないことになるわ。油断していたら、また隙を狙って迷える魂を絶望の底へ突き落とし、その呪いのエネルギーを自分の力にして蓄えてしまう。そんなことを繰り返させたら、いずれこの世界を滅ぼせる程の力を与えてしまうことになるもの」
「――本当に、それがこいつの意志なのか」
「……どういうこと?」
か細い月が、金色に輝いている。ちょうど、『今』のレオニードの髪と同じように。
「さっきは白い髪に赤い瞳だったが、既に金髪碧眼に戻っている。これが人間としての姿だとしたら、こいつには『陽神』としての人格と『レオニード』としての人格の両方が備わっているということじゃないのか」
「確かに、その通りね。良介くんが席を立って私と二人きりになった途端に、目つきが変わったもの……きっと、その瞬間に乗り移ったんだわ」
「だとしたら、こいつの――『レオニード』の意志ではないということにならないか。飽くまで、『陽神』に意識を支配される時があるだけで」
「いいえ、そうはならないわ。例え人格が違ったとしても、その『力』を望んだのは彼自身だもの」
「何……!?」
ようやく、背後に立つ彼女の方へ視線を向ける。
「言ったでしょう、良介くん。私たち一等星は、『力』を望めば第三級神格者になることができるって。それは、陽神でも同じこと。つまり、彼が自ら『死』と『破壊』の力を求めたということになるわ」
「……つまり」
俺が、そのきっかけを与えたということか――出かけたその言葉を、寸でのところで呑み込んだ。しかし、彼女にはわかってしまったようだ。
「そう、あなたの記憶を奪い、自分自身の存在すら抹消してしまったのも、全て彼が望んだことよ。そこまでさせてしまったのは、恐らく……良介くん、あなただと思うわ」
「ああ――」
同じ孤児院で支え合って生きてきた、唯一無二の幼馴染にして親友。彼にとってそこまでの影響を与えることができるのは、良介ただ一人。
「記憶を取り戻したいのなら、全てを知りたいのなら、あなたも同じように『力』を望めば済むことだわ。でも、一度『神』になってしまったら、その宿命を背負ってしまったら、二度と『人間』には戻れない。今の彼のようにね」
「………」
返す言葉がなくなってしまった良介には、ただ俯くことしかできなかった。レオニードの肩に添えていた手に、力を込める。
星々が、慰めるように、哀れむように煌いていた。
*
「おーっす、真田! 昨日はサンキューな!」
春の朝、小鳥が囀る住宅街の坂道。良介の心中を余所に、彼――レオニードは満面の笑みで追い掛けてきた。突然肩を叩かれ、必要以上に体を強張らせてしまう。
「あ、わりぃ。驚かせちまって」
「いや……気にするな」
猫が、家の塀に上る。警戒心の強い犬が吠える。小学生がランドセルを背負い、いってきます、と叫びながら玄関から飛び出していく。
レオニードは、その立ち振る舞いから察するに、どうやら昨晩のことを覚えていないらしい。あの後、意識を失った彼を良介とリリアナが自宅へ運んだのだが、そのことすら気づいていないようだ。
「お前さ、教えんのうめーのな! お陰で自分でも何となくわかってくるよーになったぜ?」
「そうか、良かったな」
「おーよ!」
白い歯を晒し、屈託のない笑顔を見せつける。その眩しい表情に、胸が痛む。
「真田さ、教師とか向いてんじゃねーの? いや、どっちかってーと予備校の講師かな? 大学教授ってのもいーな!」
嬉々として話題を振るが、昨晩のことばかり考えてしまう良介にその言葉は届かない。
そう、彼は過去に間違いなく、この途方もなく明るい少年の無垢な心を傷つけてしまったことがある。それは、彼に第二の神たる人格が宿ってしまったことが証明している。
彼は、記憶を失くす一年前に大きな罪を犯した。それは、彼のもとへ訪れた県警捜査一課の人間と、保護観察所から派遣された保護司の存在が明らかにしている。全貌は謎のままだが、その事件とレオニード――『霧崎隼人』との関係を否定することがどうしてもできずにいた。
裁判により彼の行為が正当防衛であると認められ、情状酌量の余地を得て、彼は少年院への送致を免れていた。彼の行動が『霧崎隼人』を守る為のものであると仮定すれば、その判決にも頷ける。
捜査一課が担当する刑事事件は、強盗・殺人などの重大な犯罪である。つまり、彼は何者かに命を狙われていた『霧崎隼人』を庇う為に、その人物を殺めたということが考えられる。その仮説が、彼の中で最も有力なものとなっていた。
しかし、ここで一つの矛盾が発生する。何故、『霧崎隼人』はその時点で『陽神』の力を望み、全てをなかったことにしなかったのか。
自分を守る為に親友がその手を穢し、法によって裁かれることになれば、罪悪感を抱かないはずがない。だとすると、一年前の『その時』に陽神の死と破壊の力を得、その事実を抹消するべきではなかったのか。それなのに、何故『霧崎隼人』はそうしなかったのか。何故、一年後になって陽神の力と人格をその身に宿すようになったのか。
答えは、唯一つ――その事件以上に、彼によって深く心を抉られることになったきっかけがあるからであろう。最早、それ以外に説明のしようがない。
疑問ならまだ残っている。何故、過去の全てを払拭できる力を持っていながら、彼が殺人罪を犯したという事実を消し去らなかったのか。その事件こそが『霧崎隼人』にとって最も忌むべき過去であったことに違いはないはずだが、その一点についてだけは、どうしても答えが見出せずにいた。
「……っておい、良介! 聞いてんのかよ!?」
甲高い声が鼓膜を貫き、彼はようやく思考回路の渦から抜け出した。それまで彼は、レオニードが話している内容どころか、自分が何を見ているのか、何処へ向かって何処を歩いているのかもわからずにいたのだ。
いつの間にか住宅街を抜けて、駅前の大きな交差点まで来ていた。人と車の往来が激しく、忙しない空気が漂っている。スーツに身を包んだ会社員、ハイヒールで足音を鳴らしながら自慢の香りを撒き散らす女性、エナメルバッグを肩から下げた学生。それぞれが、横断歩道を渡って一直線に改札口へと雪崩れ込んでいく。
レオニードは、数歩前を歩きながら彼の方へ顔を向けていた。よって、信号の色が変わり、車が走り出していることに気づけない。
彼自身が状況を把握するまで、数秒という時間を要した。クラクションが響く。女性達の悲鳴が上がる。しかし、彼の脚は恐怖で固まってしまい、動かすことができなくなっていた。
「隼人ッ!!」
叫ぶと同時に、飛び出す良介。腕を伸ばし、掴み、瞬時に歩道へ引き戻す。間一髪のところで、事故は回避された。
騒然とする大衆。コンクリートの地面に倒れ込む二人。起き上がった瞬間、互いの目が合う。反射的に、彼は怒鳴っていた。
「阿呆、前を良く見ろ!! 危うく轢かれるところだったんだぞ!?」
「わ、わりーわりー……また、借り作っちまったな」
唇を引き攣らせ、無理に笑って見せる。刹那、彼はある違和感を覚えた。その答えは、直後に判明した。
彼は先程、間違いなく『隼人』と言った。無意識に、幼馴染の真の名を口にしていたのだ。
しかし、レオニードはそれを否定しなかった。それどころか、一切言及しようとすらしなかったのだ。
良介と同様に記憶を改竄されているのだとすれば、すぐさま疑問を投げかけてくるはずである。それをしないということは、彼にはまだ、『霧崎隼人』としての記憶が、自我が残っていることを意味する。
どういうことだ――良介は混乱した。『霧崎隼人』の存在が皆の記憶から消され、『レオニード』という別の人物として姿を現したということは、彼自身にも『霧崎隼人』としての記憶はないはずである。そうでなければおかしいのだ。
だが、このことは朗報であるとも言える。良介が、自然に記憶を取り戻しつつあるという証でもあるからだ。そして、謎多き人物・『レオニード』についての秘密の糸も確実に解かれ始めている。
奴について、もっと探ってみる必要があるな――良介は、そう確信した。
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