GENE.L ‐箱庭‐

□☆第3話
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 走っている。走っている。息を切らしながら。汗を流しながら。


 鬱蒼と茂った密林。木の根と岩で凸凹になった、泥濘だらけの獣道。異常な湿気と熱が、容赦なく彼の体力を奪う。幾重にも響く蝉の鳴き声が煩わしい。それでも、彼は走るしかない。囚われてはならない何かから逃れる為に。


騒ぐんじゃねえ。手前(てめえ)だろ? 米軍殺しの、赤郷大海ってのは


「ちがう、ちがう……」


諦めろ、もうネタは上がってんだよ! 表向きはレイプされかけた母親がバットで撲殺したっつー事件として処理されたが、本当は……殺したんだろ、手前が


「うるさい、うるさい……」

大人しく認めるってんなら解放してやるぜ? さぁ言え、僕が殺(や)りましたって! さもなきゃ……悪い子には、お仕置きが必要だなぁ?


「やめろ、やめろっ!!」


 前方から、光が差し込んだ。砂浜が見える。海が見える。


「痛っ……!」


 油断したところで、倒れた木に躓き、転倒した。白いシャツが泥塗れになり、腕から血が流れる。


「ひっ……!?」


 脚に、何かが纏わりつく感触。舌を伸ばし、牙を露にした蛇が、彼と目を合わせた。


「やだ、やだ……やめて、やめてっ」





 たすけて、誰か――!!





「大海、大海! 起きろ、大丈夫か!?」


 肩を揺さぶられ、少年――赤郷大海(あかざとひろみ)は、目を覚ました。寝巻が冷や汗で湿っている。


「どうした? また、悪い夢でも見たのか」


 震える唇から、声を出すことができない。代わりに腕に縋り、こくこくと頷く。


「恐れるな。もう、お前を狙う者はいない。お前の過去を探り、悪く言う者もいないんだ」


 髪を撫でる手から、やさしく熱が伝わってくる。しかし、どんなに彼――真田鷹仁(さなだたかひと)が大海を慰めても、その涙が止まる気配はない。


 しかし、正気に戻り始めたのか、やがて少年は泣き止み、震えも止まった。最後に、軽く小さな背中を摩る。


「落ち着いたか」

「……うん」

「今日が始業式の日だが……行けるか、学校に」

「うん。大丈夫」


 無理に口角を上げ、笑ってみせる。それが強がりであることはすぐにわかったが、何も言わず肩を叩き、鷹仁は下の階へ降りていった。


 大海はこの夏、祖父と暮らしていた島から離れ、鷹仁と共に関東へ移り住んだ。彼の母――赤郷聡美(あかざとさとみ)の遺言により親権を譲渡された鷹仁に初めは抵抗していたが、言うことを聞けばいずれ父親の存在を明かすという条件が出されたのだ。身寄りを亡くした彼に、他の選択肢など残されていなかった。


 赤郷聡美は、心臓病の発作で獄中死した。父親の正体を教えると唆し、彼女を強姦しようとした米兵をバットで殴り殺した息子の罪を被った為だ。真相を知った伯父は金欲しさにその情報を悪友に売り、大海がその男に襲われ、祖父がその男を殺し、最後は伯父と共に海へ散った。捜索は中断され、今も二人の遺体は見つかっていない。


「ごちそうさま」

「何だ、殆ど食べてないじゃないか」

「うん、いい。もうお腹いっぱいだから」


 食器を下げ、自室に戻り、新しい制服に腕を通す。鞄を持ち、玄関に行く前に、彼は祖父の遺品である三線の前で正座をし、掌を合わせた。


大海、お前は違う! お前は聡美を守った英雄だ、だからこれからは、聡美が守ったその腕で、もう一度甲子園を目指すんだ!!


「おじい、ありがとう。おれ、頑張るよ」


 その事件以来、彼は大好きだった野球ができなくなってしまった。甲子園出場という夢も諦めざるを得なかった。しかし、かつて甲子園の、琉球の英雄だった祖父――与那覇嘉一(よなはきいち)が命を賭して彼に勇気を授けたのだ。


「それじゃ、行ってきます」

「ああ。気をつけろよ」


 鰯雲が、高くなった空が、秋の気配を漂わせている。色づいた桜の葉を揺らす風が心地良い。


 その地は、島とは何もかもが違っていた。気候は勿論、風景も、植物も、道行く人々も、全てが変わってしまった。建物の多さに、自然の少なさに寂しさを覚える。人も車も多く、眩暈がする。踏切を塞ぐ電車は、まるで怪物のように見える。あまりにも異様で、別世界のようなそこが、故郷と同じ国の領土であるとは俄かに信じ難かった。


 緊張を抑えながら懸命に歩を進めていくが、どうしても彼に向けられた視線が気になってしまう。赤い髪に空色の瞳、まるで童話の世界からやって来たような彼の姿が珍しがられるということだけは、島と同じだった。


「おはよう。もしかして、君がウワサの転校生?」


 不快感が頂点に達し、倒れそうになったその時、背後から声を掛けられた。


「え、えっと……」

「ああ、ごめんね、驚かせちゃって。ボクはミオウ、梁瀬彌央(やなせみおう)。君と同じクラスなんだ、ヨロシクね」


 胸まで伸びたプラチナブロンドの毛先は跳ね上がり、エメラルドグリーンの瞳はいたずらっぽく笑っている。袖が異常なほど長いサマーセーターにヘッドホンという中学生らしからぬアイテムも気になったが、それよりも彼と同じ境遇の生徒がいたという事実に驚き、我を忘れて立ち尽くす。


「き、きみも……ハーフ、なの?」

「そうだよ、だから安心して。嬉しいな、ボクも仲間ができて」


 ふふっ、と無邪気に微笑む。その表情はまるで少女のようで、声が低くなっていなければ確実に誤解していただろう。


「それじゃ、またあとでね」


 昇降口で彌央と名乗った少年と別れ、職員室に立ち寄る。眼鏡を掛けた大人しげな印象の女性教師と挨拶を交わし、一年二組の教室へ向かった。


「赤郷大海といいます。沖縄県石垣市から来ました。よろしくお願いします」


 緊張と闘いながら、教壇に上り頭を下げる。ズボンを握り締め、手汗を吸収させ、自身を落ち着かせるのに必死だった大海には、この自己紹介が精一杯だった。しかし、そんなことはお構いなしに担任が先を促す。


「あら、それだけ?」

「えっと、その……」


 脳裏を過ぎる、祖父の最期。生唾を呑み込み、覚悟を決めた。


「――夢は、甲子園に出場することです!」


 絡みつく視線。小声。恐怖、羞恥。その全てを払い除け、大海は前を向いて言い切った。もう二度と、迷わぬ様に。逃げない様に。自分に、嘘が吐けない様に。


「こーしえん? はっ、バッカじゃねーの!? オメーみてぇなチビに何ができるってんだよ!!」


 静寂を切り裂いたのは、一人の少年の声だった。黒い肌に青いサンバイザーが特徴的なその少年が、立ち上がり、大海に人差し指を向ける。


「鹿島(かじま)くん、何してるの、座りなさい!!」

「大体何だよ、その髪と目の色は? 知ってっか、こーゆー奴のこと、沖縄ではキジムナーっていうんだぜ? 要するに妖怪だよ、ヨ・ウ・カ・イ!」


 担任教師が懸命に止めようとしたが、構わず続ける少年。そんな彼のことを睨みつけ、正面から向かっていく大海。


「おっ、なんだ、やんのか?」

「………」


 無言のまま、ただひたすら目を合わせる。数秒経ったのち、不意に視線を逸らし、最後尾の空いている席に座った。


「んだよ、腰抜けが!」


 舌打ちをして、少年も大袈裟な音を立てて椅子に座り直した。溜息を吐き、何事もなかったかのように仕切り直す担任教師。


「すごいね、ヒロミ。かっこよかったよ」


 斜め前の席から、彌央がウインクをしながら小声で励ます。


「気にするな、ああいう奴なんだ。所謂、問題児という部類だな」


 腕を組みながら隣から話し掛けてきたのは、僧のように髪を剃り、眼鏡を掛けた男子生徒だった。深緑色の数珠を右手に持っている。


「俺は篤志、清川篤志(きよかわあつし)だ。父親は寺で住職をやっている。所属は野球部だ。良かったら、放課後に見学しに来ないか?」

「えっ、いいの?」

「勿論だ。甲子園を目指す本気の奴なら、先輩方も歓迎して下さることだろう」

「じゃあ、校内の案内はボクがしてあげる。お昼休みに見て回ろうね」

「ほんと? ありがとう、二人とも」


 突然喧嘩を売られた時はどうなることかと思ったが、どうやら彼らは味方になってくれるようだ。緊張も解れ、大海は心から安堵した。







 戦後間もなく設立した中学だからか、市立でも敷地が広く、校庭も開放的で、野球部とサッカー部が陣取ってもまだ余裕があるほどの規模だった。バレー部、テニス部、バスケ部の練習場所を縫って、ダイヤモンドの描かれた場所へ足を運ぶ。


「お疲れ様です!」


 帽子を外した篤志が、そのまま頭を下げる。その様子を見て、大海も慌てて腰を折り曲げた。日本の中学の野球部はインターナショナルスクールの球団とは勝手が違いそうである。


「部長、遅れてしまい申し訳ありません」

「おう、来たか、キヨ。その子は?」

「うちのクラスの転校生です。見学をしたいとのことでしたので、連れてきました」

「成程な。初めまして、主将の三好(みよし)です。よろしく」

「よ、よろしくお願いします」


 高い身長、程良く引き締まった肉体、汗をも輝かせる爽やかな笑顔。絵に描いたような好青年を前に、弱冠怖気づく大海。


「取り敢えず、準備体操だけ清川と一緒にしておいてくれ。それとキャッチボールな。終わったら、他の奴らに交じっていいから」

「は、はい!」

「因みに、野球歴は何年? ポジションはどこ?」

「野球歴は……一年くらいブランクがあるんですが、四歳の頃からやってます。ポジションはピッチャーです」

「夢は、甲子園のマウンドに立つことだそうです」

「ちょっと、何言って……」


 赤面しつつ、横から口を挟んだ篤志を咎める。しかし、一度出てしまった言葉を撤回することはできない。


「へぇ、甲子園! 凄いじゃないか、じゃあ君の実力を見せてくれよ」

「で、でも」

「ちょうどいい、清川がキャッチャーだからバッテリー組んで投げてみてくれ」


 バッテリーとは、投手と捕手のペアのことである。つまり、今この場で、野球部員の前で投げてみせろということだ。言い訳をする暇すら与えられず、素早く舞台が用意され、逃げ場を失う。


「来い。赤郷」


 キャッチャーミットを構える篤志。その中心を凝視し、集中力を高める。それに伴って、自然と高揚していく心。次第に興奮へと姿を変え、欲求が抑えきれなくなる。





 投げたい、投げたい、投げたい、投げたい、投げたい――!!





「えっ……?」


 振り上げられた左腕。しかし、球がどこにも見当たらない。それどころか、誰も球の姿を捉えていない。


「――投げた、のか?」

「……はい。ストライクです」


 三好の問い掛けに、篤志が答える。ミットには、確かに球が収まっていた。


「速過ぎて見えませんでしたが、真っ直ぐに、綺麗にここに向かってきたことは確かです」

「………」


 沈黙。静寂。互いに顔を見合わせ、目と目で意思の疎通を図る部員達。


「はは、凄い逸材が来たもんだな。じゃあ、バッティングはどうだ?」

「バッティング……」


 びくん、と肩を強張らせる。悪気はなく、バットを持って歩み寄る三好。


「――ご、ごめんなさい、おれ、気分が悪くなってしまったみたいなので帰ります、今日はありがとうございました!」

「あれ、赤郷くん!?」

「おいっ、赤郷!!」


 制止の声を振り切って、走り出す大海。昇降口で靴を脱ぎ捨て、何も履かずにそのまま教室へ逃げて行く。肩で息をし、涙を堪えながら、廊下の隅で立ち竦む。





 どうしよう、もう野球部入れてもらえないかもしれない……とにかく明日、清川くんに謝っておかなきゃ……





 窓から差し込む夕日が、校舎を濃いオレンジに染めている。校庭に響く生徒達の声。耳を澄ませると、その中から、何かの音色が聞こえた。楽器の種類はわからないが、ピアノではなさそうだ。


 その音の在り処を探っていくと、教室に辿り着いた。一年二組、今日彼が転入したクラスだ。


 身を隠しながら、中を覗き込む。はためくカーテンに背を向けて、紅茶色の髪に翡翠の瞳を持った少女がバイオリンを弾いていた。物憂げな表情で、哀しい旋律を奏でている。


「……誰?」


 演奏を止めて、彼の方を見た。やり過ごそうとは思わず、素直に姿を現す。


「ご、ごめん、邪魔するつもりはなかったんだけど」

「……構わないわ。勝手に楽器を持ち込んで弾いてるんだから、文句を言える立場じゃないし」


 無表情のまま、淡々と返す。気まずさを覚え、何とか会話を続けようとする大海。


「えっと、今の曲って、クラシック?」

「……そう。セルゲイ・ラフマニノフのヴォカリーズ」

「へ、へぇ……」


 わからない、とは言えず、そのまま口を閉ざす。風が吹いて、木の葉とカーテンの揺れる音だけが響く。楽譜が、譜面台から舞い落ちる。


「ねぇ。あなたは、この世に生まれたことを喜んでる? 産んだ親に感謝してる?」

「え……何、急に」

「どんなに辛いことがあっても、親を憎んだりしない? この世を呪ったりしない?」


 ガラス玉のような目で問い詰められ、背筋に悪寒が走る。しかし、逃げられない――彼女の視線から、彼女の言葉から。


「……ごめんなさい、妙なことを聞いてしまったわね」

「ううん――」


 瞼を閉じ、溜息を吐いてから帰り支度を始める少女。楽譜を拾い、譜面台を畳み、バイオリンをケースに仕舞い、背負う。


「あのさ」

「……何?」

「君の名前、聞いてもいい?」

「……桃山波音(とうやまはのん)。波の音と書いて、ハノンよ」


 一瞥してから、扉を閉める。それっきり、教室には何の音も響かなかった。


 東の空に、夜の帳が下りようとしていた。




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