GENE.L ‐箱庭‐

□☆第2話
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 夕日。波の音。風が吹き、濡れた身体を冷やす。


『おれはりょうすけ、さなだりょうすけだ。おまえは?』

『……はやと。』

『よし、はやとだな。くらくなるまえにかえるぞ、はやと』


 小さな手を差し出す。そっと、あたたかな指が触れる。

 ああ、そうだ。俺達は、あの日からずっと、共に支え合って生きてきた。

 それなのに――。


『オレさ、本当は……』


 お前が、あんなことを言わなければ。


『もういいやめろ、頼む、やめてくれ……ッ!!』


 ああ、それでも、俺はお前を見捨てることが出来なかった。


 どんなことになっても、俺は、お前を――。








「目が覚めたかね」


 瞼を開けると、白い光が差し込んできた。天井が見える。そこでようやく、彼は自らが仰向けに横たわっていることに気づく。


「すぐに動かない方がいい。何せ君は、一か月ほど意識を失っていたのだからな」


 白衣に身を包んだ男が、同情の眼差しで彼を見つめた。


「イッカゲツ……?」


 一か月。その言葉の意味は解る。だが、一か月前に自分が何をしていたのかがわからない。何者だったのかがわからない。そもそも此処は何処で、今はいつなのか?


「会長さん!? 良かった、目、覚めたんだね!!」


 扉が開き、その向こうから見知らぬ少女がやって来た。髪を左右に縛り、制服に野球帽という姿で現れた彼女は、どうやら彼のことを知っているらしい。


「カイチョウサン――それが、俺の名なのか?」

「えっ……?」

「いや、そんな筈はない。会長とは、何らかの集団を治める長のことだ。なら、俺の名はなんだ? あんたは……誰なんだ?」


 少女の口から、言葉が出なくなった。不安げに、傍らの男と目を合わせる。


「伯父さん、これって……」

「記憶障害か。厄介なことになったな」


 腕を組み、溜息を漏らす。どっかりと腰を落とし、徐にカルテを開く。


「君の名は真田良介(さなだりょうすけ)、私立鳳凰学園高校に通う一年生だ。そして、来月からは二年生となる。この子は赤郷聡美(あかざとさとみ)。君の同級生で私の姪だ。私の名は赤郷泰典(あかざとやすのり)、この病院に勤めている君の主治医だ」


 眼鏡の位置を直しながら、淡々と彼の求める情報を提示する。オールバックにした頭部には数本の白髪が混ざり、険しく刻まれた皺がその風格を強めている。歳は五十代後半か、六十代前半といったところだろう。


 鏡を手渡された。自身の姿を確認しろという意図を汲み取り、素直に受け取る。


 真っ直ぐな短い髪は黒く、切れ長な目の色も黒い。瞼は二重で、睫毛は若干長目。典型的な日本人の特徴をそのまま表した様な素顔だったが、色白で目鼻立ちの整った、美しい少年の姿でもあった。


「会長さんはね、イケメンで頭も超良かったから、年中モテモテだったんだよ! でも、まだ誰かと付き合ったことはないみたい」

「そんなことはどうだっていい! 問題は、何故俺が一か月も意識を取り戻せなかったのかということだ。そして、何が原因でそうなったのか……教えてくれ、一か月前、俺に何があったんだ!?」


 上半身を起き上がらせ、叫ぶ。その姿は、さながら獲物に食い掛かろうとする獣の様だった。明るく振る舞っていた少女は、その様子に怯え、小さく震える。


「残念ながら、私から君に伝えることは出来ない」

「なんだと……?」

「その前に、君は君自身の記憶を取り戻す努力をすべきだ。生まれ育った家や街、通っていた学校を見て、世話になった人達と会って話して、自分が何者なのかを模索すべきだ。そうだろう?」

「………」


 ぎり、と握り締めた拳に力を込める。


「大丈夫だよ、会長さん! 私が協力するからさ、ねっ?」


 少女が、励ます様に彼の手を取った。しかし、彼はその手を払い退ける。


「触るな! 目障りだ、とっとと出ていけ!!」

「会長さん……」


 驚愕、困惑、憤り、哀しみ。その全てを綯い交ぜにした表情を拭い去り、彼女は笑顔を取り繕う。


「そうだよね、ごめんね、急に押し掛けたりして。私、知らない人だもんね、遠慮しないといけなかったよね。でも――」


 これだけは忘れないでね。私は、何があっても、会長さんの味方だから。そう告げて、彼女は彼の病室を後にした。その切なげな背中を見て、自らの放った言葉の意味を、罪深さを悟ったところでもう遅い。


「……申し訳ありません、貴方の姪御さんなのに、彼女に酷いことを」

「私に謝ってどうする。明日、面と向かって誠実に頭を下げれば良いだろう」

「明日――?」

「意識が戻ったばかりで、冷静になれないのもわかる。だが、いつまでも情緒不安定のままでいられても困る。だから、君に一日時間を与えよう。これからどうすべきなのか、懸命に考えると良い」


 立ち上がり、男も部屋から出て行った。一人残された彼は、鏡に映った自身の姿を見つめ、悔しげに歪むそれに、拳を打ち付けた。


 桜の枝が、風に揺れていた。







「はい。ここが、会長さんの家だよ」


 玄関を通され、靴を脱ぐ。振り返り、靴箱を開けた。しかし、何も置かれていない。


 清潔だが人気のない、閑散とした家だった。三、四人の家族が住むのに適した二階建ての一軒家だが、どうやら彼はたった一人で暮らしていたらしい。


 階段、洗面所、浴室を横目にリビングへ。カーペットの敷かれたダイニングテーブルと、ソファに囲まれた低いテーブルがひとつずつ。小さな庭を臨む窓からは春の陽光が差し込み、丁寧に磨かれたフローリングがそれを反射している。カーテンが、風に吹かれて揺れている。
有り触れた、ごく普通の家庭の風景。しかし、その全てに、強烈な違和感を覚える。


「なつかしいなぁ。よくここで、皆と勉強会してたんだよ」


 ソファーとテーブルを指さして、聡美が言う。どうやら、同級生を招いてそこで勉強に励んでいたらしい。彼女には、かつてのその光景が見えているのだろう。


「……誰なんだ、その皆というのは」

「生徒会の子たちだよ、私は部外者だったけど」


 座ってもいい?と尋ねてからソファーに腰掛け、バッグの中から表紙の厚い冊子を取り出す。平成18年度市立狩ノ宮中学校第58期生卒業アルバム――深緑色の布地には、金色の刺繍でそう書かれていた。


 クラス、部活動、委員会、年間行事毎にまとめられた写真。その中に、生徒会執行部役員を撮影したものがあった。どうやら、まず中学での知り合いを伝えたいらしい。そして、中央に立っている自身の姿から察するに、中学時代生徒会長を務めていたことから、彼女は彼のことを『会長さん』と呼んでいるようだ。


「このショートヘアで眼鏡の子は吉川葵(よしかわあおい)ちゃん。おっちょこちょいなところもあるんだけど、真面目で可愛いんだよ。学年は一個下で、今年から鳳凰の一年生。で、このポニーテールの子が梅宮昌子(うめみやしょうこ)、弓道部で私の幼馴染。昌子が私を誘ってくれて、皆で一緒に鳳凰行こうねってことになったんだ。それから……」

「待ってくれ、一気に言われてもわからない」

「あ、そ、そうだよね、ごめんごめん。これから学校行って会う約束してる子たちだからさ、今のうちに紹介しといた方がいいかなって思って! 確かに、まとめて言われても覚えられないよね。ばかだなぁ、私」


 お茶淹れてくるね、と言って台所へ逃げていく聡美。その間、中央に立つ自分と、その左右を囲んでいる彼らの姿を眺める。


「……どう、思い出せそう?」

「いや。だが――」


 たった一人だけ、名前は思い出せないが、見覚えのある人物はいた。それは、彼の右隣に立っている、少し伸びた髪をヘアゴムで束ね、満面の笑みで写っている活発そうな印象の少年。


「ああ、キリちゃんのこと?」

「キリちゃん……?」

「そう、霧崎隼人(きりさきはやと)くんだからキリちゃん。確かに、思い出せるとしたらその子かな。会長さんと一番付き合い長かったみたいだから」


 急須でお茶を注ぎながら、落ち着いた調子で答える。湯呑をお盆で運び、一つを彼の前に置いた。


「まるで、俺があんたの家に招かれているみたいだな」

「しょうがないよ、まだ何も思い出せてないんだもん。だから、そんな顔しないで?」

「すまない。……有難う」


 右手で湯呑を持ち、そこで彼はようやく自身の利き腕を把握した。程良い熱さのそれを喉に通し、嘆息を漏らす。


「ところで、もっと詳しく教えてくれないか。その、霧崎隼人について」


 もちろん、いいよ。快諾し、今日になって初めての笑顔を見せる。


 彼とその少年は、幼い頃同じ孤児院で育ったらしい。彼は母を早くに亡くし、父が育児放棄したまま海外へ単身赴任してしまった為に。少年は、生まれた直後に両親に捨てられてしまった為に。


 同い年であったからか、境遇が似ていたからか、二人は互いに支え合い、励まし合って生きていくこととなった。中学生になったと同時に二人は孤児院を後にし、それぞれの家で暮らすようになったが、彼らの関係は変わることなく、卒業まで続いていたそうだ。


「なんかね、一言でいっちゃえば大親友って感じ。普段はつまんないことでケンカばっかりしてたし挨拶代わりに憎まれ口叩き合ったりしてたけど、揺るぎない信頼関係っていうのかな? いざって時はすごい助け合ってたし、誰も二人の中に割って入れないーみたいな雰囲気があったよ」

「そうか……だが、そいつのことすら忘れてしまったんだな」

「しょうがないよ、だって――」


 言いかけて、咄嗟に口を閉ざす。その言葉の先に何があるのか、彼はすぐにわかった。


「だって……何だ?」

「べ、別に、何でもないよ」

「俺が記憶を失くした理由だろう? 何故隠す必要がある、いいから教えてくれ、頼む」

「でも……!」

「頼む。知りたいんだ、どうしても」


 無意識に、彼は聡美の腕を掴んでいた。頬を赤らめ、目を逸らす彼女。


「……ごめん、なさい。私からは、どうしても、教えられないの」

「――どうしても、か」

「うん。ごめんなさい、会長さん……」


 俯いた視線の先に、雫が零れ落ちた。細い肩が震えている。


 口を開こうとした瞬間、呼び鈴が鳴った。彼女を置いて、玄関へ向かう。


「はい、真田ですが」

「良介くんかい? こちら、警察の者だが」


 警察。その言葉が、彼の心に突き刺さる。


「……どうぞ」


 招かれざる客ではあったが、ここで拒むと事態が悪化すると考え、彼は慎重に扉を開けた。


「県警捜査一課警部補の梅宮誠二郎(うめみやせいじろう)だ。私にとっては初対面ではないんだが……赤郷先生から話は聞いた。意識を失う前の記憶がないそうだな」


 警察手帳を掲げながら言ったのは、煙草の臭いの良く似合う、眼力の強い中年の男だった。その背後に、気弱そうな印象の太った男も立っている。


「そうですが……そのこととあなた方に、一体何の関係が?」

「単刀直入に言おう。良介くん、君は昨年の今頃、重大な罪を犯した」


 ライターで火を付け、紫煙を吐きながら告げる。


「私はその事件を担当した者だ。そしてこちらが、保護観察所から派遣された、保護司の加藤芳樹(かとうよしき)さんだ」


 額の汗を拭いながら、遠慮がちに背後の男が会釈する。


「裁判の結果、君の行為は正当防衛によるものと認められ、情状酌量の余地を得た。結果、少年院に送致されることなく、保護観察官及び保護司による監視によって今まで通りの日常生活を送っていたんだ」

「待ってください、つまり俺は……」

「これ以上言う必要はない。問題は、本当に君が記憶喪失になっているのかどうかだ。そのことを確認する為に、今日我々はここへやって来た」

「――俺が、嘘を吐いている可能性を疑っているんですね」

「そのことなら、私が証明します」


 振り返ると、目を赤くした聡美が立っていた。涙の跡がまだ残っている。


「これから、彼を学校へ連れて行きます。親しかった同級生や後輩とも会う予定です。だから、刑事さんたちも一緒に来てください。そこで、彼が本当に記憶を失っていることがわかるはずです」




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