GENE.L ‐箱庭‐

□☆第1話
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 雲の隙間から、太陽が覗いた。打ち寄せる波が煌き、彼の足を濡らす。冷たい感触が、火照った肌に心地良い。


 サンダルを脱ぎ、飛沫を上げながら海へ入っていく。波に乗りながら、彼は目的地へ向かった。珊瑚が、魚達が、全身で光を浴びて、歓喜の声を上げている。それを見るだけで、彼の心も弾む。


 浅いリーフが続いたが、やがて水深が五メートル程になった。幾つもの巨大な珊瑚の根に、色とりどりの魚達が群がっている。赤、黄、青、桃色、水色――花弁の様に舞い、小さな鱗で光を反射させ、彼を海の中へと誘う。


 大きく息を吸いこんでから、彼は真下へ潜った。手足を大きく掻き、水底の珊瑚を掴む。






 音のない世界。まるで、人間などこの世に存在しないかの様に。






 魚達との距離が縮まる。しかし、手を伸ばしたら逃げていく。こんなにも近いのに、こんなにも遠い。磯巾着が、ゆらゆら、ゆらゆらと踊る。そこから顔を出す彼らにさえ、哀れに思われている気がしてしまう。


 海になりたい、彼はそう願っていた。海の一部になりたい、砂浜に音色を奏でる波になりたい、珊瑚になって、魚になって、何も考えず、ただ海によって生まれ、海によって生き、海によって死に、永遠の命の流れの一粒でありたい、と。


 しかし、彼の願いは叶わない。どんなに望んでも、苦しくなれば水面に上がり、酸素を吸わなければ生きていくことのできない人間として生まれ落ちたからだ。潜る度に思い知らされ、彼は虚しくなる。波に揺られ、空を仰ぎ、この世の全てを呪っても、彼は人間であり続けるしかないのだ。


 陽が傾き始めている。風向きが変わり、先程よりも強く吹いていた。南寄りの風になると、このポイントの海は荒れる。追われる様に、彼はビーチを目指す。



「いつも、ここで泳いでいるのか」



 聞き慣れない、低い声がした。海へ溶けていきそうな、優しい声。空色の瞳を、その人物へ向けた。鮮やかな赤い髪から、雫が滴る。



「島の子供とはいえ、一人で遊ぶのは危険だろう。海を甘く見ない方がいい」



 内地の人間かな、と彼は思った。しかし、観光客にしては違和感がある。シャツ、ズボン、革靴、眼鏡、腕時計――身につけているものはおろか、艶のある髪も瞳も、全てが深い黒だった。風に煽られて、白衣が飛ばされそうになっている。医者がこんなところに何の用だろう、と彼は首を傾げた。



「おい、聞いているのか」

「……初対面で、いきなりお説教? 余所者の癖に、偉そうに海を語らないでよ」

「何処でそんな可愛くない口の利き方を覚えた」

「煩いな、そっちこそさっきから何なんだよ、いい加減にしないと――ッ!」



 右脚に、鋭い痛みが走った。しまった、と後悔しても遅い。海月(くらげ)に刺されたのだ。激痛に、声すら上げられず蹲る。彼が倒れるのと、意識が身体から離れたのは殆ど同時のことだった。













『大海(ひろみ)、大丈夫、私は大丈夫だから、ねぇ、もう止めて、お願いだから……!』


 どこからか、彼の母の声が聞こえた。男によって服を剥かれ、あられもない姿になった彼女が、大粒の涙を流し、叫び、血眼になった彼を止めようとしている。彼は、肩で息をしていた。握り締めていたバットが、音を立てて床に落ちる。


 純白のカーペットが、真紅に染まっていた。男の頭から流れるそれは川となり、海となり、彼と、彼女の肌を穢していく。



『お母さん……おれ、おれ……』



 正気を取り戻した途端、手が震え出す。彼女は彼を強く抱き締め、告げた。



『大海、ごめんね、こんな目に遭わせて、本当にごめんなさい……でも、私のことを守ってくれてありがとう。今度は、私があなたを守る番。きっと、あなたを守り通してみせるから、だからこのことを、誰にも言っちゃだめだからね……?』









 やわらかな三線の音と共に、母の姿は消えた。彼は自宅の、民宿の居間に横たわっていた。その傍らで、三線を弾く祖父と、先程の人物が腰を下ろしている。



「おじい……?」

「気づいたか、大海。こちらのお医者さまがお前を運んで、傷跡の治療もしてくれたんだ。感謝しなさい」



 無意識に、ふくらはぎに触れる。刺されたはずの皮膚には、腫れ痕ひとつない。


 彼は、仏頂面のまま話すこの祖父――与那覇嘉一(よなはきいち)のことが苦手だった。幾重にも皺の刻まれた元来の強面に加えて口数が少なく、眉間に皺を寄せていることが多いので、近づくことすら恐ろしいと思っている。現在は引退した身だが、かつて島内一と謳われた伝説の海人としての風格も、決して失ってはいない。



「ハブクラゲに刺された様だが、大したことはないだろう。いい機会だ、これを肝に銘じて、海で一人遊びなんて二度としないことだな」



 眼鏡のレンズを磨き、溜息をつきながら医者らしき人物は言った。その動作に苛立ち、声を荒げる。



「あんたに指図される覚えなんかないよ!」

「大海、恩人に失礼なことを言うんじゃない。それに、彼は今日から大事なお客人なんだからな」

「客人……?」



 すると、この民宿に泊まるということだろうか。観光でなければ、一体、何の為に?



「お前を連れ戻す為だ、赤郷大海(あかざとひろみ)」



 彼の心の内を読んだかの様に、男は言った。その言葉が彼に届くまで、数秒を要した。



「どういう意味だよ……それ」

「そのままの意味だ。これからは俺と共に、お前の母親の生まれ育った土地で暮らしてもらう」

「何わけわかんないこと言ってんだよ! おじい、追い出してよこんな奴!」



 祖父の腕を掴み訴えたが、返事はなかった。どうやら、既に容認しているらしい。



「そんな……やだよ、おれ、ずっとここにいたいよ、ねぇ、おじい!!」



 肩を揺さぶると、観念した様に祖父は言った。



「大海、お前がこの島を好いているのはわかる。だが、島の子供はいずれこの地を離れていかなければならない。それが少し早くなっただけのことだ」

「なんで……おれ、まだ中学に入ったばっかりなのに……」



 これ以上粘っても無駄だと確信し、彼は嘉一から離れた。父親のわからない混血児である孫を引き止める理由など、ないということだろう。祖父として心から慕っていたわけではないのだから、尚更である。



「真田鷹仁(さなだたかひと)、それが俺の名だ。胸部心臓外科医で、高校の同級生でもあったお前の母親の手術もしたことがある。自分が死んだらお前を引き取って欲しいという遺書も預かっている」



 焦点の合わない彼の眼前に差し出された手紙。そこには、懐かしい母の筆跡が綴られていた。彼は、偽物だと思えない自身の記憶力を呪った。



「しかし、急に来いと言われてもすぐには応じられないだろう。今月いっぱいまで待ってやるから、その間に荷物をまとめて、心の準備でもしておいてくれ」



 それだけ言い残し、鷹仁と名乗った男は居間を後にした。肩を震わせ、畳を濡らす彼に対して、嘉一が言葉を掛けることはなかった。





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