書庫1

□やさしさ
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―頭、いってぇな…。

孫市は得意先を周りながら、眉をしかめた。どうも朝から調子が悪い。頭痛はするし、食欲もない。身体もだるい。

―風邪かなぁ。

次の得意先に向かう途中なのだが、やたらと足が重い。

―昨日の酒がマズかったかな?

孫市は昨日を思い出す。


昨日の夜、孫市は一人だった。

渋った挙げ句、ようやく恋人の慶次と同棲を始めた孫市だが、その慶次は昨夜、仕事で帰って来なかった。なんでも、大きい取引があって、それが今まさに山場を迎えているのだとか。ここ数日は会社に泊まったり、家に帰って来ても深夜だったり。二人はすれ違いの生活を送っていた。

それで、家に一人の孫市は、酒をしこたま飲んでロクな食事もしないまま、最後はテレビもつけっぱなしでリビングのソファーで寝てしまった。朝目覚めた時には、喉の奥がちょっとヒリヒリしていた。それだけだったので、あまり気にしないで出勤したのだが、朝から時間が経って昼をすぎ、今体調は下り坂をたどっている。

―薬、飲んだ方がいいかな?

ズキズキしてきた頭痛に、孫市はそう考える。

―悪化すると、厄介だもんな。

孫市は、途中に見つけた薬局に入り、風邪薬を買った。そして昼ご飯もロクに食べないまま、乱暴に薬だけを水で胃の腑に流しこんだ。

―よし、これでいいだろ。

孫市は薬を飲んだ事で、勝手に安心する。

孫市は、病弱な方ではない。昔、小さい頃から野山を駆け回って、たくましく育った方だ。社会人になり、一人暮らしを始めてからは、男の一人暮らしの常として、コンビニや外食にお世話になった。夜更かしもすれば、酒も飲んだ。健康的な生活、とはいい難い毎日を続けて来たが、それでも風邪をひく事すら、まれな事だった。

―薬も飲んだし、さて…次の得意先に行きますか。

孫市は元気よく歩き出した。しばらくすると、薬が効いたのか、頭痛はおさまった。

―効くねぇ、薬は。早く飲んで良かったぜ。

そんな事を思いながら、孫市は遅くまで外回りをこなした。



社屋に戻ると、何やらフロアが騒がしい。同僚の左近が、いつになく焦った様子で電話をしている。

―何だ…?

孫市は電話を切った左近に『どうしたぁ?』と尋ねた。

「おう、孫市。外回りお疲れさん。いやぁ、それが俺の担当の中に、納期間違えてたのが一件あってさ。向こうさんのミスなんだけど…どうにかしてくれって泣き付かれて、間に合わせるためにテンヤワンヤだよ。書類も山積み…。」

左近がため息まじりに事情を教えてくれた。

「そっか…なら俺、書類手伝うぜ?」

孫市が言うと、左近が

「いいのか?悪いな、今度礼はするから。」

助かるよ、を連呼して孫市を拝んでみせた。

―どうせ今日も慶次は遅いみたいだしな。早く帰っても仕方ないぜ。


さっき、孫市の携帯には慶次からのメールが届いた。それには、仕事で今日も遅くなる…もしかしたら帰れないかもしれない、と記されていたのだ。それがあったから、孫市は面倒な残業を引き受けたと言える。仮に『今日は久々に早く帰れるよ』なんて慶次からの連絡があれば、孫市は尻尾を振って直帰してたに違いない。

「じゃ孫市、これ頼む。」

左近がドスンと大量の書類と資料を孫市の机に置いた。

「うわ、あるなぁ…!なにこの量…。」

左近の机にも、それ以上に大量の書類と資料が積み上がっている。

「今日中じゃなくてもいい。3日間で片付けばいいんだ。」

左近はそう言うが、3日でも片付くかどうか。それ位、大量だ。

「…とにかく、やっつけますか。」

孫市は書類に手をつけた。



周りのフロアはみんな帰って行き、結局残っているのは左近と孫市だけになった。

「しっかし、全然減らねぇな〜!」

孫市が呆れたような声をだす。

「これだけあるとな…」

左近もゲンナリして処理している。そんな会話をしていると、孫市はまた頭痛とだるさを感じて来た。

―薬、きれたかな?

そう思い、

「左近、コーヒーでも飲むか。」

と、腰をあげた。そして自分と左近のコーヒーを手に机に戻り、また夕飯も食べないで、さっきの薬をコーヒーで流しこんだ。

―これでマシになるかな。

そんな孫市をみて、

「孫市、風邪か?なら、あんまり無理しないで上がれよ。」

と左近が言った。だが乗り掛かった船だ。この状況で、左近一人を残して帰れないだろう。

「大丈夫だって。」

孫市はそう言って、また手を動かし始めたのだった。
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