書庫2
□御所草子U
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しばらくの後、
「ところで…」
と孫市が切り出した。
「あんた、どうして俺の名前を知ってたんだ?」
初対面の時、慶次が名乗りもせぬのに自分の名を呼ぶので、孫市は大いに驚かされたのだ。その時も『どうして俺の名前を』と尋ねたが、今に分かるさとはぐらかされて終わっている。孫市はずっと気になっていたのだ。
「あぁ、あれか…あんたの名前はな、院からうかがったのさ」
「院から?何で俺なぞの名前を…」
「院のお耳に入れたのは帝だ。自分の随身にはとても腕が立つ男がいる、とね。それを聞いた院は興味を示されたんだな、何せ負けず嫌いなお方だし…」
慶次が酒をあおった。
「なるほど、ね…」
孫市はうなずいた。
「それで、院はあんたに言ったワケだ?雑賀孫市をぶちのめせ…ってね」
「ははは、そんな風にはおっしゃらないさ。ただ、どちらの腕が上か、と俺にお尋ねになった」
「ほう。それで?」
「それでも何もないさ、そんな事は腕比べでもしてみなきゃ分からんだろ?」
「そう院に申し上げたのか」
「そうさ」
「それで腕比べする事になったと…」
そう考えれば合点がいく。
「それって、ぶちのめせって言うのと同じようなもんじゃないか?」
「そうかな」
「そうだろうが…」
実際、引き分けとはなったものの、慶次の弓の破壊力に一同は肝を抜かれたのだ。きっと院は至極満足されたに違いない。
「当て馬にされたワケだろ、俺が」
孫市が不満そうに言った。
「そんな事ないだろ、結局引き分けなんだからねぇ。何はともあれ、院のご発案のおかげで上手と評判の二人の弓を拝見できて、俺には大収穫だったね」
まぁ飲めよ、と慶次が人懐っこい笑顔で孫市の杯に酒を満たす。
「まったく…調子狂うぜ」
孫市が酒をあおった。
そんな頃…。
御前では宴が続いていた。篝火の中、院のお気に入りの側近・蘭丸が舞いを披露しており、尚侍も帝のお隣でそれをご覧になっていた。帝お近くには貴公子たちが席を連ね、もちろん島大将もその中にある。すぐそばに大将のお背中があり、尚侍は我知らず緊張なされた。すぐそこに、大将がいらっしゃる…それだけで鼓動が高鳴るのである。身体が火照るようで、さほど暑くもないのに、尚侍の首筋には少し汗がにじんだ。それをそっと、拭う。
「お疲れかな…?」
何気ないように動いたつもりだったが、帝がお気づきになられて心配そうなお顔をされた。
「いえ…」
まさか大将の事を考えていたなどとは言えない。尚侍は無理に笑ってみせた。すると、
「おや…いつもと少し違う薫りがするようだが…」
帝がおっしゃるので、尚侍は心臓をつかまれたかのように思われた。それは、尚侍自身も感じていた事だった。鼓動が早まり熱を帯びた事で、胸にたばさんでいた大将からの手紙が温められ、焚きしめられていた薫りが立ちのぼったのだ。帝のお言葉に、
「そ…そうでしょうか?」
とっさに何とご返事してよいか分からず、素知らぬ顔をしてしまった。普段は人より、こういった変化に敏感である尚侍であるのに、薫りに気づかないと言うのを、
「おや…わかりませんか。確かに違う薫りがしたようだったが…」
と、帝は不思議そうにご覧になる。しかし、焚きものはお手紙の切れ端で、それを絹の袋におさめてお着物の懐深く留めているために、少し尚侍が身動きすれば、たちまち散って消えてしまう。今もそうで、もう尚侍の好んで常用される薫りしかしなくなっていた。
「私には分かりませんでした」
帝は私などよりずっと敏感でいらっしゃいますね、などと尚侍は誤魔化して、
「今はもう匂わない。気のせいだったかもしれないが…」
そう帝は首をひねられ、再び薫りの話題をなさる事はなかった。事なきを得たが、
―私は顔に出なかっただろうか…。
尚侍は内心、動揺されていた。あの時、不意に薫りを指摘されただけに、驚きの表情をしただろうが、それが不自然に大きな驚きと捉えられなかっただろうかと思ったのだ。
―気を引き締めなくては…。
尚侍は自分に言い聞かせた。
こうして、長い宴が終わった。
尚侍も部屋に戻って着物などをゆるめ、一息ついたが、密かに身につけていた島大将からの手紙を、少し複雑な気持ちでそっとしまわれた。
「お疲れになったでしょう。お休みになられますか?」
ねねが気遣う。尚侍は一人になって色々と考えたく思ったので、
「そうします」
と答えた。すると、
「私、しばらく起きておりますから、何かありましたらお呼び下さい」
ねねがまるで宿直をするような事を言うので、
「真田殿や雑賀殿は?」