書庫2
□御所草子U
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恋をする立場になった今だからこそ、尚侍を訪ねられた時の山城殿のお気持ちが痛いほどよくわかる。
―たくさんの障壁を越えて、あの方は尚侍の君をお訪ねになられた。だが私はしり込みをして、なかなかその壁を越えられない…。
庭のざわめきが離れて行くのを聞きながら、自分は何と不甲斐ないのだろうと、幸村はため息ばかりが出るのだった。
「ため息など、あまり良くないな」
その声は、突然だった。
―え…?
聞き覚えのある声に、幸村は凍ったように動けなくなり、しばらくじっとしていた。すると、背後から衣擦れの音とともに、再び声がかかった。
「そなたがしおれているのは似合わない」
丸みのある、柔らかい声だ。幸村は恐る恐る振り向いた。
「中将…!」
立っていたのは、間違いなく山城殿である。幸村は鼓動が激しくなり、顔も耳も一気に熱くなったのが自分でわかった。だが、反対に指先は氷のように冷たく、震えてすらいる。
「驚かせてしまったかな?すまない、そんなつもりではなかったのだが…」
「いえ、そんな…」
幸村は居住まいを正した。緊張が目に見えるような仕草である。
「ど、どうされました…?」
「隣に…いいかな?」
山城殿は座って話をしてもいいか、と尋ねられた。
「も、勿論です…!さ、どうぞ」
このような場所で、寒くはないかと気づかう幸村に、山城殿は『大丈夫だ』とおっしゃる。
「…」
二人はしばし沈黙した。急な対面に、何から話せばいいかと幸村は混乱したが、やはり最初に申し上げるべきなのはお詫びだと思い至り、
「あの…先日は、本当に申し訳ない事を致しました。お許し頂けるような話ではありませんが、私が強く反省している事だけは知って頂きたく思っています」
幸村が頭を下げると、
「そんな風に謝ってもらわずとも良いのだ。私こそ…」
山城殿は眉をハの字になさって困ったようなお顔をされた。
「私の勘違いであの様な振る舞いをして、私こそ申し訳なかったと思っているのだ。そなたが人違いを告げた時も、私は混乱してしまって、ろくに謝りもせずに逃げ帰ってしまった…」
済まない、と頭をお下げになられる。そして、
「だから、謝らなければならないのは私の方なのだ。だが、何と言えばよいのか困惑してしまって…今になってしまった」
そうおっしゃった。山城殿が自分と同じように悩み、考えていらしたと知り、幸村は胸が熱くなった。
「私は大丈夫です。中将、どうかお気になさいませんように」
幸村はにっこりと笑い、力強くそう言った。すると山城殿は安心されたように少し頬をゆるめられたのだが、すぐにまた難しい表情をされて、
「その言葉、大変に有難い。だが…気にしないなど、出来ないのだ…」
「はぁ…?」
「…いや、そなたは悪くはない。全て私自身の問題で…」
急にしどろもどろになられた。そして困ったようになさって、
「わ…忘れようとしたのだ、私は…。いや、尚侍の君との事ではなくて…あの方とは初めからご縁がなかったのだから。縁があると思ったのは私の間違いであったのだし…」
それはいいのだ、と色白の面を少し伏せられた。
「忘れようとしたのは尚侍の君の事ではなくて、その…」
逸らしていた瞳を、一度ちらりと幸村に投げてから口を開かれる。
「…そなたの事だ、忘れようとしたが駄目だった」
山城殿がゆっくりと、困った表情のまま顔を上げられた。
「私は尚侍の君のものと誤解していたが…あの手を握りしめた時の温かさを、その感触そのものこそが愛おしいものだと、胸の中でずっと…」
「…」
「それが尚侍の君のものと違って…そうわかってからも…私の胸からは、あの手の感触が愛おしいという感情が消えなかった…」
「しかし…」
幸村が遮ると、
「そうだな、あれはそなたの手だ。だが…」
中将は泣き出しそうにすら見える表情である。
「私はやはり、あの手こそが愛おしい」
「…」
意を決したように、愛おしいのだよ、と中将は言い切られた。
「そなたと、そなたの手に…私は恋をしてしまった」
山城殿のご発言に、幸村は言葉を失った。本当に、あまりに思わぬ事態ゆえに、完全に凍りついてしまった。お顔を凝視したまま、厳しい表情で身じろぎひとつしなくなってしまった幸村に、
「あ…すまぬ、そんなつもりでは…」
山城殿は慌てたように謝罪なさった。
「こんな事を言えば困惑して当然だな、済まない。私は、そなたを悩ませたい訳ではなくて…」
幸村は相変わらず動かない。