書庫2
□御所草子U
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琴の音が美しく耳をうつ。
―あんなご立派な方に想われる女性は、つくづくお幸せな方…。
尚侍は内心で嘆息した。隣のお席の帝が身じろぎなさったか、お着物が動いた拍子に焚きこめられた香がふわりと薫った。それに、尚侍がはっとなさる。
―いけない、私はまた…。
伏し目がちに、慎み深く帝の方を向く。
―帝とて、本当にご立派な方。
そして広い御心を持つお優しい方だと思っている。複雑に絡む糸を持つ尚侍を、理解して受けとめ、全て許容して温かく護っているのは帝なのである。
―帝にお優しい声を掛けて頂いている私は、幸せなのだ。普通ならばお目に留まるような立場ではないのだから。
帝をお支えし、及ばずともお力添えしよう…尚侍は自らに言い聞かせた。
そんな頃…。幸村はひとり、ぼんやりと座っていた。女房たちも皆、宴に出払っているので静かである。廊下から、欄干にもたれて見るともなく空を見ていた。おぼろに淡い柔らかな金色の月は、仏像の御仏が放つ後光のようで、神々しく優しいように思われた。そんな光を見ていると、いつしかその中心に、ある方の姿を浮かべている。
―金色や白銀が似合われる。
その方は以前、お会いした時に山吹の着物をお召しになっていた。とても良くお似合いで、鳶色の瞳とあいまってこの上なく上品でお美しかった。
―武芸ばかりの私と違い、あれこそまぎれもない貴公子のお姿。
幸村の脳裏にあるのは、山城殿である。
―お美しいあの方に、私はあんな表情をさせてしまった…。
自分が尚侍の身代わりであったと告げた時の山城殿のお顔が忘れられない。悲しい顔をさせた、と思うと幸村は胸が痛む。昼に御前で行われた武官たちの腕比べで、チラリとお見かけした山城殿は、まるで逃げるように移動された。
―きっと自分を恨み、顔を合わせるのはおろか姿さえ視界に入れたくないのだろう。
幸村はそう考える。あんな顔の合わせ方をしてしまって、山城殿はさぞやご気分を害されただろうが、もはや仕方ない状況だったと幸村は思う。そう思う一方で、胸が痛む。
―帝に反してでも、想いをとげる覚悟をお見せになったあの方の落胆は、並々ならぬものだったであろう。
そんな懸命な想いを裏切った自分に、そんな運命の巡りあわせに、幸村はうなだれた。
―お優しい方なのだ。
唇を合わせた時の事が忘れられない。あの時の山城殿は、少し強引だったけれども決して無理強いではなく、流れるように優雅だった。
―こんな事になるなんて…。
身代わりだった自分が、運命のいたずらで温もりを交わし、人違いだと知りながら相手に心を掴まれてしまったのだ。
―滑稽だな。
幸村は自分の手を見た。男らしい手だ。その手を、ふわりと包むように握った山城殿の温もりを覚えている。
―一度でいいから、お会いしたい。ちゃんと謝って…許してなど頂けないだろうけど…。
そっと山城殿を訪ねればいいのかもしれないが、忍んで通うというような事をした経験がない幸村は、途方に暮れた。堂々と正面きって山城殿を訪ねようかとも考えたが、山城殿と幸村が遭遇した事実は一種密事でもあり、なるべく他人に知られない方が良いはずだ。山城殿のためにも、尚侍のためにも、やはり忍んでいくしかないという結論にたどり着く。
―相談できる相手といえば…。
浮かぶのは孫市以外にない。尚侍のご事情も承知で、かつ『忍ぶ』のが得意な男である。
―でもなぁ。
幸村は気がすすまなかった。大体、自分の気持ちを孫市に何と説明すれば良いかがわからない。ただ謝りたいと言うだけでは、余計な事はしない方がいいと止められそうだった。きっと自分が孫市の立場なら、下手な動きはしない方がいいと判断するだろうからだ。
―かと言って、正直に言うのは…。
山城殿に一目、お会いしたいから。そんな事を言ったら、遊び上手なあの同輩は、一体どんな冷やかしをするだろうか。いいや、その前に『お会いしたい』だなんて自分の気持ちを口に出す事すら、恥ずかしくて出来ない。
―ああ、私に孫市殿の半分でも才能があったなら…。
幸村はため息をつき思い悩んでいると、静かだった庭の方が少しざわめいた。宴から退いて戻るらしい人影がいくつか見える。お酒が入っているため陽気で、宴に出払って誰もいないと思ってか、遠慮がなく声が高い。話している内容が耳に入った。恋の話のようだ。
―恋、か…。
その単語から連想される、ひとりの人。もはや幸村は山城殿に焦がれていた。
―立場も、身分も違うし…しかも男性だというのに。
なのに、あの方から気持ちを離す事ができない。