書庫2
□御所草子U
3ページ/12ページ
音楽や詩が次々となされて、賑やかである。昼とはまた違った趣の、煌びやかな景色に、尚侍はうっとりとした。
「院、先の帝が名器と讃えた琴を覚えておられますか?」
帝が院に尋ねられた。六天院は少し考えるような仕草をなされ、
「あぁ…ずっと以前の話ですな」
ここにいる惟任が、それはそれは見事に奏でて、先の帝にお褒め頂いた事がありますよと胸を張った。
「そうでしたか…惟任は一言もそのような話をしないから、私は知らなかった」
惟任殿は恥ずかしそうになさって、
「私など、お耳に入れるような腕ではございませんよ」
とても恐縮なさる。
「その琴、今ここに?」
「ええ。島大将がこれから弾きますから、楽しみにされて下さい」
帝と院がそうお話をされていると、ちょうど大将が琴の準備をし始めた。
「これより島大将と伊達卿が演奏なさいます」
準備が整った事が知らされ、演奏が始められる。伊達卿が笛を吹き、島大将が琴を奏でられた。大将の席は、御簾の向こうの、割合に帝とお近い場所に設けられている。それはつまり尚侍とも近いという事で、
―今日もまたお見事な…。
尚侍の席からも、指先まで見えるようだ。扇で、お顔を人目から注意深く遮りつつ、食い入るように見つめられた。大将はがっしりと貫禄ある方で、手先も男性らしく荒々しさが伝わるような形である。決して細くはないその指が、かくも繊細な音色を器用に弾く…尚侍には不思議で、そしてそれが、
―実に大将らしい。
と、面白くも感じられた。
―不思議な方。
そう思う。大将は、尚侍にとって未知の世界を持つ方である。
―あの方が、不思議な方と評されるお相手は、どんな女性なのか。
それは大将が思いを寄せる方である。尚侍は目を伏せた。形の綺麗な唇を、ぎゅっと色が変わるほどに強く結んだ。
―苦しい…。
胸の鼓動が早い。細い肩がせわしく上下した。周囲の音楽やさざめきが消え、急に色のない暗黒で満たされるような感覚。重苦しさに尚侍は喘いだ。
「尚侍?」
「あ…」
不審そうな面もちをされた帝に呼びかけられ、尚侍は我にかえった。その瞬間、燃える炎を見たようで、
―何?今のは…?
まだ動悸がしている。帝は、
「顔色が悪いようだが…」
と、おっしゃり、身体がつらいなら部屋に引き取っても構わないと、いたわるようになさった。帝のお側近くにありながら島大将という違う男性の事を考えていて、それなのにお優しく帝からお言葉を掛けて頂く事に、尚侍は自責の念にかられた。
―私は尚侍なのだから…帝のお為にあるべき身分なのだから…。
尚侍は自らを叱り、
「私は大丈夫です。お側におります」
にっこりとなさった。その笑顔につり込まれるように帝もお笑いになり、
「それなら、ここで一緒に宴をみていましょう」
安心なさったお顔をされた。そんな様を、院は温かい眼差しで見守っておられる。どうやら惟任殿から、帝の尚侍に対するご寵愛の深さは聞き及んでいらしたようだった。
「仲睦まじく、宜しいことだ」
少し冷やかすように仰り、
「惟任、そなたも一曲」
院のおのぞみで、惟任殿が一曲演奏なさる事になった。琵琶がお得意なのである。楽器を手になさった惟任殿に院が、
「直衣(のうし)をくつろげたらどうだ?窮屈に見える。構わないからゆるめよ」
宜しいですよね、と帝にも同意を頂き、
「お許しが出たから、皆もそうなさい」
一同に向かっておっしゃった。夜の事もあり、長く続く宴で酒もすごしている。そこへ来ての院のお許しであるので、皆が少しずつ襟元をくつろげた。すると、くだけた雰囲気になり、場がなごんだ。
「では一曲」
惟任殿と一緒に、島大将も琴をなさった。その襟元も緩くされていて、大将の首元や肩のあたりがうかがわれる。
―たくましい腕をしていらっしゃる。
決して醜くくならないくらいの貫禄で、ほどよい男性らしいお身体。尚侍はまぶしく思われた。同じ男性として我が身に引き比べ、少し情けなく思われる。
―あんな男性もいる。だが、私ときたら…。
ご自分の運命を、ご自分で切り開く事ができない現実…。
―島大将には、どんな世界が見えるのだろう。
尚侍は思う。ついさっき、大将の事を考えるのはやめようと思ったばかりなのに、
―あの方は、きっと自分には見えない世界をご覧になっているだろう…。
またかの人をお考えになっていて、だがそれに尚侍ご自身は気づいていらっしゃらない。
―どこを取っても申しぶんない貫禄にご容姿、教養…一流の殿上人には、宮中がどのように見えるのだろう。